誰にも見られていなければ、なかったことになる。
そう思いたい夜があります。ブッダは、その逃げ場はない、と静かに告げました。
見ている人がいなくても
自業自得の「業」とは、行為のことです。何かをすると、それは業力(ごうりき)という、目に見えない力となって残り、消えない、とブッダは説きます。
風に逆らって土をまけば、自分に返ってきます。自分の行為の報いも、必ず自分が受けます。『スッタニパータ』は、「何者の業も滅びることはない。
必ず戻ってきて、作った本人がそれを受ける」と伝えています。
大空のなかにいても、大海のなかにいても、山の奥に入っても、世界のどこにいても、悪業から脱れる場所はない。
『ダンマパダ』の言葉です。他人の目をごまかしても、隠れ場所を探しても、報いの届かない場所はありません。
人は、業の相続者
ブッダは、人間は「業の相続者」だと教えています。肉体が滅びても業は滅びず、自分が背負っていくからです。
死ねば、財産は遺族に譲れます。業だけは、自分で相続し、善悪それぞれの報いを受けます。生きとし生けるものは、いつか死にます。
そのとき人は、作った業にしたがって、善と悪の報いを受ける、と『ウダーナヴァルガ』は説きます。

死ねば帳消し、ではない
因果を無視して、来世の報いなどないと考える人は、恐ろしいことにも手を伸ばします。
たとえば、人を傷つけた果てに自分の命を絶つ人が、「死ねば罪は消える」と思っているとしたら、それは無知の悲しみです。
『ダンマパダ』は、聖なる道理を破り、来世を無視する人は、どんな悪でもなさないものはない、と警告しています。
肉体が滅すれば大罪まで消える、というのは、あまりに都合のよい考えです。
ブッダは、今生で報いを受けずに済んだとしても、それは来世に受けなければならない、と説いています。
悪い行いの業は、乳のようにすぐに固まるわけではない。しかし来世に至ってから、その行き先を知る。のちに報いを受けるとき、激しい苦しみが起きる。
手遅れになる前に
欲のまま悪を重ね、臨終に「死んだらどうなるのか」と慌てても、手遅れです。だからブッダは、今ここで学べ、と言います。
世間で不正だと知られていることのために、不正を行ってはならない。
この教えは、自分を脅すためのものではありません。隠れても消えないのなら、今からまき直せる、という希望でもあります。
今日の一つの善は、誰の目にも触れなくても、あなたの相続する財産になります。

見ている人がいなくても、行いの力は残ります。隠す場所を探すより、これからまいていく種を選ぶほうが、自分を守る道です。
