「悪いことをしても、見つからなければよい」
口には出さなくても、心のどこかでそう思ったことはないでしょうか。古代インドのプーラナは、その考えを思想にまで押し進めました。
見つからなければ、よいのか
プーラナ・カッサパは、道徳否定論者です。どんな罪を犯しても報いはなく、どれだけ善に励んでも、それで幸せにはならない、と主張しました。
人を苦しめても、盗みや殺人をしても、それは悪ではないから罰もない。寄付やボランティアをしても、善をしたことにはならず、果報もない。
善悪は人間が仮に決めたもので、実在しない、と考えたのです。
プーラナの主張
根拠のないまま善悪を捨てる生き方に、未来はありません。
ロシアの小説家ドストエフスキー(1821〜1881)は、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』で、その転落を繰り返し描きました。
『新約聖書』のローマの信徒への手紙には、神が「復讐はわたしのすること」と語った、という記述があります。
悪人の処罰は神の担当であり、人間は仕返しをしてはならない、という戒めです。
では、もしそんな神がいなかったら、悪の報いは消えるのでしょうか。

ドストエフスキーの警告
ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』のなかで、「もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しない」「すべては許される」という考えを、登場人物に語らせています。
利口な人間は何でもできるさ。利口な人間は抜目なく立ちまわるからな。ところが君なんざ、人を殺して、パクられて、牢屋の中で朽ち果てるんだ。
世界がでたらめなら、善いことをしても幸せになるとは限らず、悪いことをしても、うまく立ち回れば免れる。
そう思うと、理性的に生きる理由は薄くなります。運命がでたらめなら、人間もでたらめに生きてよい、という結論に滑っていくのです。
法律を守る理由は、どこにあるか
いつの時代も、プーラナに近い人はいます。「悪いことをしても、見つからなければよい」と思っている人は、善悪そのものを脇に置いています。
その人は、逮捕されたくないから法律を守っているだけかもしれません。強大な力を手に入れて、捕まる心配がなくなれば、歯止めはどこにあるでしょうか。
道徳を否定する生き方で、本当に幸福になれるのか。その問いは、のちにソクラテスとカリクレスの対話で、もう一度向き合います。

報いがないと思うところから、「見つからなければよい」が生まれます。因果の道理は、見ている人がいなくても、まいた種は自分に返ると説きます。
