「相手が飛び込んできただけだ。私は悪くない」
その気持ちは、自然です。自因自果を聞いても、不幸が来たとき、自分の種まきの結果だとは、なかなか認められません。
相手が悪い、で終わりたくなる
自因自果とは、自分が過去に行った行為を原因とし、そこにさまざまな縁が重なって、果報を受ける、ということです。
例外があるように感じるのは、因と縁を混ぜて見てしまうからです。
たとえば、優先道路を走っているとき、細い横道から車が一時停止もせず突っ込んできたとします。相手の飛び出しが、災難の原因に見えます。
その見方は、正しいでしょうか。
知人が帰宅途中、横道から出た自転車をはねてしまい、「あそこは誰も通らないのに、なぜあのときだけ」と悔やんでいた、という話があります。
交通事故が多いのは自宅の周辺だ、とも言われます。「もうすぐ家だ」という安心と、「この道はわかっている」という油断が、事故を誘うのです。
なぜ、私だけなのか
もし「車が飛び出す」という原因だけで事故が起きるなら、前後を走っていた車も、同じ運命を受けたはずです。実際には、その人だけが事故に遭っている。
他の人にはなく、その人にだけあったものがある。
私と関係のないことが、私に起きるはずがない。その場所を、その時刻に通らなければならなかった原因が、私の側にあった。
ブッダは、自因自果に例外はない、と説きます。過去の行いが因であり、無謀な運転という悪い縁が結びついて、事故という結果が現れた。

熱いコーヒーと、見えない熱
業の力は、見ることも触ることもできません。だから事故の本当の原因だとは、思いにくい。でも、本当の原因が目に見えない例は、ほかにもあります。
熱いコーヒーを膝にこぼして火傷をしたとします。原因はコーヒーだ、とも言えます。もしアイスコーヒーだったら、火傷はしなかった。
本当の原因はカップそのものではなく、目に見えない熱です。表面だけ見ていては、因果は正確にわかりません。
交通事故で誰の目にも明らかなのは、飛び出した車です。それは悪果が現れるのを助ける間接の原因、つまり悪い縁です。
幸福や不幸を直接生み出すのは、目に見えない過去の業だ、と自因自果は教えます。
相手を無罪にはしない
飛び出した人が、私の災難の「因」ではないからといって、無罪なのではありません。悪い縁になったのですから、処罰されるのは当然です。
同じ事故が繰り返されないよう、危険な運転を減らし、悪い縁を減らす努力も必要です。
この教えは、「被害者を黙らせる」ためのものではありません。表面の相手だけを恨み続けると、苦しみの因果が見えなくなる。
『ウダーナヴァルガ』は、苦しみはつねに因縁から起こる。その道理を見ないから、人は苦しみに縛られる、と説いています。
運命の因果を知ることが、幸せの第一歩です。認められない日があっても、大丈夫です。
見える原因の奥に、もう一つの原因がある、と覚えておくだけで、恨みの向きは少し変わります。

目に見える相手は、しばしば縁です。自分の行いが因である、と知ることは、相手を許す表演ではなく、次の不幸を増やさないための見方です。
