「死んだら、すべて終わりだ」
そう思うと、今を楽しく過ごすことだけが残ります。古代インドのアジタは、その考えに、唯物論という理屈をつけました。
楽しく生きれば、それでよいのか
唯物論(ゆいぶつろん)とは、存在するのは物質だけであり、心や魂も物質の働きにすぎない、という考えです。当時のインドにも、その典型がいました。
アジタ・ケーサカンバリンです。
アジタは、人間は地・水・火・風の四つの元素の寄せ集めであり、死ねばそれらがばらばらになるだけだ、と主張しました。
肉体のほかに魂はなく、死んだら「私」は無になる。だから善をしても悪をしても、来世の報いはない。
先のプーラナは、根拠もなく道徳を否定しました。アジタは、「死ねば何も残らない」という前提から、なぜ報いがないのかを説明しようとしました。
宗教も道徳も不要で、この世を楽しく生きればよい。快楽主義です。
アジタの唯物論
今も、近い考えは少なくありません。「心は、脳の中の出来事だ」という主張も、その一種です。
人間の脳では、一千億を超える神経細胞が網の目のようにつながっています。
心は脳の働きにすぎない、と唱える人に対して、神経細胞の研究で1963年にノーベル生理学・医学賞を受けたジョン・エックルスは、精神のすべてを神経のパターンで説明しきれるという還元主義を、「迷信の部類」だと批判しました。

心は、脳の出来事なのか
エックルスは、脳をコンピューターに、心をプログラマーにたとえました。脳が心を生み出すのではなく、心が脳を道具として使う。
そして心は、肉体が滅びたあとも残る、物質ではない存在だ、と論じたのです。
脳に触れて研究した人は、エックルスだけではありません。
脳外科医のワイルダー・ペンフィールドは、露出した患者の脳に電気刺激を与え、何を感じたかを聞く実験を繰り返し、二十世紀の脳研究に大きな成果を残しました。
生きた脳に、これほど触れた人はいない、と言われています。
ペンフィールドは当初、心は脳で説明できると信じ、唯物論の立場を貫いていました。
しかし晩年、脳と心は別だと考えるほうが合理的だ、という結論に達しています。
脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える。長い研究生活を通じて、なんとかして心を脳で説明しようと試みてきた。
今、証拠を検討しているうちに、人間は二つの基本要素から成るという説のほうが合理的だと考えられ、驚異の念に打たれている。
これは『脳と心の正体』のなかの言葉です。
ペンフィールドはさらに、人の心がどこから来たのかは誰にもわからない、しかし心は確かに存在し、世代を超えて受け継がれていく証拠がある、とも書いています。
意識が説明できても、「私」は残る
脳の研究に生涯をかけた科学者たちが、「脳だけでは心は説明できない」と言っている。脳と心の関係は、それほど簡単ではない、ということです。
もう一つ、大切な区別があります。大脳の生理学が研究しているのは、「私の心」や意識であって、「私」そのものではありません。
たとえ将来、感覚や記憶や思考が脳の活動で説明できたとしても、それは「私の意識」の説明です。「私」そのものが、そこで消えるわけではありません。
本当の私は何か。この大きな問いは、のちの章でもう一度開きます。
今ここで確かめておきたいのは、死んだら無だから何をしてもよい、という飛び方は、科学がすでに結論を出した話ではない、ということです。

快楽主義は、「死ねば帳消し」を前提にしています。その前提は、脳の研究の最前線でも、簡単には通りません。
行いの意味は、今の楽しさだけで決まりません。
