「人間は、死んだらどうなるのだろう」
誰もが一度は考える問いではないでしょうか。
もし死んだら何も残らず、善い行いにも悪い行いにも、その後の報いがないとしたら、私たちは何を大切にして生きればよいのでしょう。
お釈迦さまの時代のインドには、人間は死ねば消滅し、死後の世界も善悪の報いもないと説いた思想家がいました。
今回は、その思想を手がかりに、「死んだら無になる」という考えと、心や命の不思議について考えてみたいと思います。
死んだら無なら、楽しく生きればよいのか
「死んだら何も残らないのだから、生きている間に好きなことをして、楽しく過ごせばよい」
そんな考え方を、耳にしたことはないでしょうか。
お釈迦さまの時代のインドにも、人間は死ねば消滅し、死後の世界もないと説いた思想家がいました。
アジタ・ケーサカンバリンです。
アジタは、人間の体は「地・水・火・風」という四つの元素から成り立っていると考えました。
そして、人が死ぬと、地は地に、水は水に、火は火に、風は風に還り、その人の存在は消滅すると説いたのです。
肉体が滅びれば、もはや「私」という存在も残らない。だから、善い行いをしても悪い行いをしても、死後にその報いを受けることはない、というのがアジタの考えでした。
以前紹介したプーラナ・カッサパも、善悪の行いによって功徳や罪が生じることを否定しました。
しかし、二人の考え方には違いがあります。
プーラナが行為の善悪に伴う功徳や罪を否定したのに対し、アジタは、人間そのものが死によって消滅するという考えを示し、死後の報いや生まれ変わりを否定したのです。
では、死んだら何も残らないのなら、善いことをする意味もなくなるのでしょうか。
自分さえ楽しければ、それでよいのでしょうか。
この問いを考えるために、アジタの唯物論をもう少し詳しく見ていきましょう。
アジタの唯物論と現代の考え方
人間は物質からできており、死ねば何も残らない。
アジタが説いたこの考え方は、現代の私たちにとっても、決して無縁ではありません。
物質こそが世界の根本にあると考える立場を、唯物論(ゆいぶつろん)といいます。
現代でも、心の働きは脳の活動によって生じると考える立場があります。
もちろん、現代の唯物論が、すべてアジタと同じ結論に立っているわけではありません。脳の働きによって心を説明しようとすることと、善悪の行いに意味がないと考えることは、別の問題です。
それでも、「人間は物質だけで説明できるのか」という問いには、共通するところがあります。
実際、人間の脳には約860億個もの神経細胞があり、それらが複雑につながって、記憶や感情、思考などに深く関わっています。
脳のどの部分が、どのような働きをしているのか。研究が進むにつれて、多くのことが明らかになってきました。
しかし、脳の働きを詳しく調べれば、心のすべてを説明できるのでしょうか。
この問題について、興味深い考えを示した科学者がいます。
1963年にノーベル生理学・医学賞を受賞した、神経生理学者のジョン・エックルスです。
エックルスは、神経細胞がどのように信号を伝えるのかを研究し、脳や神経の仕組みの解明に大きく貢献しました。
その一方で、心の働きをすべて神経細胞の活動によって説明できるとする考え方には、強い疑問を抱いていました。
特に、科学が進歩すれば精神のすべてを物質の働きで説明できるはずだとする主張を、エックルスは「迷信」とまで評しています。
脳の働きを深く研究した科学者が、なぜそのように考えたのでしょうか。
そこには、「脳の働き」と「私たちの心」は同じものなのか、という大きな問いがありました。

心は、脳の働きだけで説明できるのか
私たちが何かを考えたり、喜んだり、悲しんだりするとき、脳の中ではさまざまな活動が起きています。
では、心とは脳が生み出したものなのでしょうか。それとも、脳の働きだけでは説明できない何かがあるのでしょうか。
この問題について、エックルスは、脳と心を別々の存在として捉える立場から考察を重ねました。
脳は心の働きを支える大切な器官ですが、心そのものが脳の活動だけで説明できるわけではない、というのが彼の考えでした。
さらにエックルスは、心は物質とは異なる存在であり、肉体が滅びたあとも存続するという見解を持っていました。
もちろん、これはエックルス自身の哲学的な見解であり、死後も心が残ることが科学的に証明されたわけではありません。
しかし、脳の研究に長年取り組んだ科学者が、心と脳の関係を深く考えていたことは、注目に値するでしょう。
同じ問題に長年取り組んだ、もう一人の科学者がいます。
カナダで活躍した脳外科医、ワイルダー・ペンフィールドです。
ペンフィールドは、てんかんの外科治療を行うなかで、意識のある患者の脳に弱い電気刺激を与え、どのような反応が起こるかを調べました。
刺激する場所によって、手足が動いたり、過去の出来事を思い出すような体験が生じたりすることがありました。
こうした研究から、脳の働きと人間の経験には、深い関係があることが明らかになっていきました。
ペンフィールドも、脳の仕組みを調べることで、心の働きを説明しようと研究を続けていました。
ところが、研究を重ねるうちに、一つの疑問が残りました。
脳に刺激を与えることで、体を動かしたり、過去の記憶に関わる体験を引き起こしたりすることはできる。
それでは、自分の意思で何かを決めるという働きも、脳への刺激だけで説明できるのだろうか。
ペンフィールドは、この問題について長年考え続けました。
そして晩年、著書『脳と心の正体』で、心を脳の活動だけで説明するよりも、人間は脳と心という二つの基本的な要素から成ると考えるほうが合理的ではないか、という見解を示しています。
脳の働きを解き明かそうと研究を続けた末に、心は脳だけでは説明できないのではないか、と考えるようになったのです。
もっとも、これもペンフィールドが研究から導いた一つの解釈であり、心と脳が別々に存在すると証明されたわけではありません。
私たちが何かを思い、考え、決断するとき、脳は確かに働いています。
しかし、その働きと「私が考えている」という実感は、いったいどのような関係にあるのでしょうか。
脳と心の研究は、私たち自身の存在について、改めて考えるきっかけを与えてくれます。
心の働きがわかっても、「私」とは何か
脳の研究が進むにつれて、心の働きについても、さまざまなことがわかってきました。
しかし、「私が感じている」という体験をどのように理解すればよいのかについては、今も議論が続いています。
たとえば、目の前に美しい花が咲いているとします。
その花を見て、私たちは「きれいだな」と感じます。
このとき、目から入った情報が脳に伝わり、さまざまな神経活動が起きています。
では、その仕組みがすべて解明されたなら、「きれいだ」と感じる私たち自身の体験も、十分に説明できたことになるのでしょうか。

脳の中で何が起きているのかを調べることと、そのとき私たちが何を感じているのかを理解することは、深く関係しています。
しかし、両者がどのようにつながっているのかについては、今も哲学や科学の研究が続いているのです。
さらに、ここにはもう一つの問いがあります。
そもそも、喜んだり、悲しんだり、考えたりしている「私」とは、何なのでしょうか。
私たちは普段、あまりにも当たり前に「私」という言葉を使っています。
- 「私はうれしい」
- 「私は悲しい」
- 「私はこう思う」
けれども、その「私」がいったい何なのかと問われると、簡単には答えられません。
お釈迦さまも、人間の存在について深く見つめられました。
仏教では、私たちが「自分」だと思っているものについて、それが変わることのない実体なのかを問い直します。
私たちの体は、年齢とともに変わっていきます。
考え方も、気持ちも、昨日と今日では違うことがあります。
そうして変わり続ける心や体を、私たちは「これが私だ」と思っています。
けれども、その中に、いつまでも変わらない「私」があるのでしょうか。
仏教の無我(むが)の教えは、こうした私たちの思い込みを見つめ直すものです。
それは、死ねば何もかも無になるという考えと、同じではありません。
また、変わることのない魂があると、単純に説くものでもありません。
では、私たちは何のために生まれ、何を大切にして生きればよいのでしょうか。
この問いは、死んだら無になるのかという問題とも、深く関わっています。
死後のことを科学がすべて明らかにしたわけではありません。だからといって、死後の世界が存在すると科学的に証明されたわけでもありません。
また、たとえ死後に何も残らないと考える人であっても、それだけで善悪の区別がなくなるわけではありません。
しかし、アジタのように、死後の存在だけでなく、善悪の行いによる報いまで否定する考え方は、私たちに一つの大きな問いを投げかけます。
人間の行いには、どのような意味があるのでしょうか。
「死んだら、すべて終わりだ」
もしそうだとしても、生きている間の行いに意味がなくなるわけではありません。
私たちの一つ一つの行いは、自分自身や周りの人に、さまざまな結果をもたらしています。
仏教では、行いとその結果の関係を、因果の道理(いんがのどうり)として説いています。
善い行いも悪い行いも、どのような結果を生み出すのか。
そして、人間は何のために生きるのか。
死後のことを考えるのは、決して死んだあとのことだけではありません。
今、この人生をどう生きるか。
その大切な問いにつながっているのではないでしょうか。
