伝教大師(最澄)の生涯については、これまで記してきた通りです。ここからは、私たちがさらに知るべき伝教大師の思想と教訓の一端について触れていきます。羅渓慈本(らけいじほん)師は、伝教大師の持つ「十徳」を挙げて深く信仰・尊敬しています。大師が執筆したとされる著書は合計で430部にも達し、現在残っているものだけでも120部に及びます。大師によって開かれた比叡山は、1150年という非常に長い歴史を持ち、日本の文化史において極めて重要な役割を果たしてきました。もちろん、限られた紙面で大師の深い思想や教訓のすべてを語り尽くすことはできません。ここでは断片的にではありますが、大師の教えのいくつかをご紹介します。
もし聖徳太子が「日本仏教の高祖(大元)」であるとするならば、伝教大師は「日本仏教の始祖」と仰がれるべき存在ではないでしょうか。
最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)の軌跡
弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)は、平安時代の初期に日本が生んだ、世に並ぶもののない優れた二人の聖者でした。共に桓武天皇、嵯峨天皇という二人の天皇から深い信仰と尊敬を集め、共に大唐(中国)へ渡って仏法を求めるという大事業を成し遂げました。一人は比叡山・天台宗の宗祖(最澄)、もう一人は高野山・真言宗の宗祖(空海)です。そして、二人とも平安時代という300年間にわたり、日本国民の信仰と希望の象徴であり続けました。

弘法大師は伝教大師よりも8歳年下でした。伝教大師が56歳で入滅(お亡くなりになること)されたのに対し、弘法大師は6年長く生きられ、62歳で入滅されました。
弘法大師(高野大師)は真言密教の教えを見事に完成させ、『二教論(にきょうろん)』『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』などを著して、仏教全体の教えを体系的に整理(教相判釈)しました。さらに『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』などを著し、その教えの深さを明らかにしました。後世、その教義について異なる解釈が出たこともありましたが、中世の比叡山天台宗において制度が乱れ、顕教(一般的な教え)と密教が混ざり合ってしまったことに比べれば、真言宗は非常に整った一大体系の仏教でした。大師はこのように真言宗を完成させただけでなく、実のところ多芸多才な英傑でもありました。
その書風(文字の書きぶり)を見ても、高野山の『聾瞽指帰(ろうこしいき)』、東寺の『風信帖(ふうしんじょう)』、仁和寺の『三十帖策子(さんじゅうじょうさっし)』などを拝見すれば、才能が溢れ、神秘的で飄々(ひょうひょう)とした趣があります。中国の長安にいた頃、執筆の五つの技法を巧みに操ったことから「五筆和尚(ごひつわじょう)」として名を馳せ、日本においては嵯峨天皇とともに「書の二聖」と当時の人々から呼ばれたことも、決して無理のないことだと思います。また、大師は絵画や彫刻においても優秀な作品を残したと言われています。東寺にある「真言七祖の御影」や「不動明王の像」、高野山の「勤操僧正(ごんそうそうじょう)の御影」などが大師の真作であるならば、それだけでも日本の美術史上で大芸術家として重要な地位を占めるべきです。少なくとも、ご自身で直接絵筆をとらなかったとしても、多くの仏画や仏像の理論書を日本に持ち帰り、あるいは儀式のための配置や構造を監督することで、中世の美術史に大きな影響を与えた偉大な功績は確かです。
一方、伝教大師(最澄)の書風は、弘法大師と比較すると、気高くて力強い「高古勁健(こうこけいけん)」な風格を備え、立派ではありますが弘法大師のような軽妙な筆さばきではありません。「飛白(ひはく)」のようなかすれを用いた書風は伝教大師には見られません。『年分縁起(ねんぶんえんぎ)』や『久隔帖(きゅうかくじょう)』を見ても、そのきっちりとした謹厳な書風が理解できるでしょう。伝教大師は天台宗を開立したものの、未解決の課題が多く残されていました。円教・密教・禅・戒律の四つを融合させる「四宗融合(ししゅうゆうごう)」という大きな目標や、内外に多くの問題を抱えていたため、とりわけ若くして亡くなられた大師にとっては、決して容易なことではありませんでした。
中古の天台
中古(平安〜鎌倉)の天台宗において、ある時は顕教(一般的な教え)に偏ったり、ある時は密教が混ざり合った異義・異説が多く生まれたのは、叡山(比叡山)仏教としての巨大な体系がまだ完全にまとまっていなかったことに起因するとも考えられます。
しかしながら、見方を変えて思えば、「問題の解決だけが知識ではない」ということです。像法から末法へと向かう時代(像末)の日本に生まれられた一人の仏道修行者である最澄法師が、日本民族として真の正しい道に目覚め、仏教徒としてどうしても考えなければならない問題を見つけ出し、それを民族の前、そして求道者の前に提示したということは、文化史の上で非常に重要な意義があると思います。伝教大師が弘法大師よりも文化史において特に重要な地位を占めていると言われるならば、その理由はまさにこの点にあると思います。
民族の信仰と大陸(中国・インド)の文化との接触・調和、すなわち日本古来の「民族観」や「神祇観(神々の信仰)」、そして護法・戒賢以来の仏教における二大潮流であった「縁起(えんぎ)思想」と「実相(じっそう)思想」、「空(くう)」と「有(う)」の両思想の発展の頂点とも考えられる顕教・密教の一致の提示など、これらはすべて伝教大師によって提唱された、日本人仏教徒としての長年の課題(宿案)でなければならないのです。
伝教大師が亡くなられた後、叡山(比叡山)の仏教は伝教大師の教えを受け継ぎ、その探求と修行、そして体系の完成に力を注ぎました。
ある時は「四宗融合」の中でも特に台密(天台密教)の完成に力を尽くされた智証大師(円珍)や安然(あんねん)和尚の時代もありました。またある時は、特に「止観業(瞑想修行)」に注意が注がれた恵心(えしん)や檀那(だんな)の両流派が活躍する時代もありました。さらには、戒律の学問が独立した「浄戒流(じょうかいるゅう)」の時代もありました。あるいは「観心即禅(自分の心を観察することがそのまま禅である)」が広まり、「止観は法華の所以なり(瞑想こそが法華経の根本である)」と言われた時代もありました。いずれにしても叡山仏教は、伝教大師の四宗融合の天台宗を中心とし、「円頓(えんどん)の教え(完全で速やかな悟りの教え)」とその宿業(過去世からの行い)の解決・完成のために、数多くの優れた知識人や学者たちが、時にはメスを入れるように鋭く知識を批判し、時には深い内省と瞑想修行(修観)によって、少しずつ発展を遂げていったのです。実に、我が国の鎌倉時代の新仏教は、こうした数多くの先哲(昔の優れた思想家たち)による苦心と修行の基礎の上に生まれ出た結晶であり、精華(最も優れた部分)なのです。
鎌倉の新仏教と叡山(比叡山)

弘法大師は偉大な哲人であり、真言密教の教学組織を見事に完成させました。大師以後の高野山の仏教は、大師の真言宗を受け継ぎ、完全に整備していく歴史でした。真言密教からさらに新しい宗派が生まれる余地はなかったのです。しかし、伝教大師の天台宗は、完全な組織体系には至っていませんでしたが、大いなる総合的な教えと多くの「宿案(未解決の課題)」が含まれていました。民族として、また仏教徒として当然解決しなければならない多くの課題が提示されていたために、3、400年後の比叡山からは数多くの新しい宗教が生まれ出たのです。
鎌倉時代は、いわゆる「日本新仏教」が興隆した、燦然(さんぜん)と輝く宗教文化の時代です。そして、これらの新仏教の開祖となった優れた先徳たちを見ると、どの方も比叡山の仏教と深い関係を持っていたことに、誰もが驚くことでしょう。
融通念仏宗の祖・良忍(りょうにん)上人
融通念仏宗の開祖である良忍上人は、伝教大師の滅後296年、鳥羽天皇の永久5年に立教開宗を宣言されました。上人は23歳の時、
のがれても 心えこそゆるさぬ世のうさを
厭(いと)ひ来て棲む 大原のおく
(意訳:世間から逃れても、心は世の辛さを許してはくれない。そんな世の中を嫌って、私はこの大原の奥地で暮らしている。)
と詠んで比叡山を下るまでの11年間、東塔において苦心惨憺して修行された立派な師です。
浄土宗の祖・法然(ほうねん)上人
浄土宗の祖師である法然上人は、13歳の時に比叡山に登って源光の弟子となり、24歳で黒谷(くろだに)の叡空(えいくう)の下を去るまでの11年間、西塔の黒谷において天台の教えを修めました。その後『往生要集(おうじょうようしゅう)』によって「専修念仏(ひたすら念仏を唱えること)」に帰依し、43歳にして初めて浄土宗を開かれました。これは伝教大師の滅後354年に当たります。
臨済宗の祖・栄西(えいさい)禅師
臨済宗の祖師である栄西禅師は、14歳で比叡山に登って出家・受戒し、26歳で宋(中国)に渡るまでの間、時には下山したこともありましたが、山中に草庵(粗末な小屋)を結び、大蔵経(仏教の全経典)を読み込むこと8年、ひたすら研鑽に励まれました。禅師が二度の入宋を終えて帰国し、博多に聖福寺(しょうふくじ)を開いて禅宗を広められたのは、伝教大師の滅後370年、建久2年のことです。
曹洞宗の祖・道元(どうげん)禅師
曹洞宗の開祖である道元禅師は、山に留まった年数は短かったものの、13歳の時に比叡山麓にいた叔父の良顕(りょうけん)法師の草庵を訪ね、横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の座主・公円の下で出家されました。その後、宋に渡って仏法を求め、曹洞禅を伝えて日本の曹洞宗の始祖と仰がれるに至ったのです。
浄土真宗の祖・親鸞(しんらん)上人
浄土真宗の祖師である親鸞上人はどうでしょうか。上人は9歳の時、青蓮院(しょうれんいん)の慈鎮(じちん)和尚(慈円)について出家したと言われています。その年、比叡山の無動寺(むどうじ)に入り、前後実に20年間修行されました。29歳の時、京都の四条橋のほとりで聖覚(しょうかく)に出会い、法然上人の立派な徳を敬い慕ってその庵室に身を投じるまで、比叡山において「那蘭陀(ならんだ)の果(仏教の学問の成果)」を拾い、「三密止観(真言密教や天台瞑想)」の教えを深く汲み取られました。上人が52歳の時、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著して浄土真宗を開かれたのは、伝教大師の滅後403年に当たります。
日蓮宗の祖・日蓮(にちれん)上人
日蓮宗の祖師である日蓮上人は、仁治3年に澄海(ちょうかい)に伴われて比叡山に登り、32歳で伊勢の神宮で開宗を奏上するまでの前後11年間、比叡山において経典や論書、注釈書(経論章疏)を開き、日本天台の真髄(心要)を学びました。上人の開宗は伝教大師の滅後432年に当たります。
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実に、鎌倉時代の新仏教の開山祖師たちと比叡山とは、決して切り離すことのできない深い関係で結ばれています。日本には数多くの高山や名峰がありますが、文化史の上から見て、比叡山ほど重要な使命を果たした霊山はありません。新仏教のどの祖師も、比叡山において短くて数年、長くて20年もの間、学問の研鑽と修行、自己の内省と深い理解(開蔵)に身を捧げられました。
しかも、ここでいう「叡山仏教」とは、伝教大師の仏教の延長であり、拡大であり、発展に他なりません。どの祖師たちも、当時の叡山仏教の教学の中心思想であった「本覚思想(ほんがくしそう:すべての生き物は本来悟りを開く性質を備えているという教え)」から直接・間接に影響を受けて教養を深め、その上で自らが安らぐべき中心的な命(教え)を見出したのです。
とはいえ、どの祖師・上人も山を下りて独自の宗派を開くことになった理由としては、当時の叡山仏教が時代の流れに反した貴族的な態度をとっていたり、教団組織が腐敗していたり、学僧たちが単に伝統を受け継ぐだけの態度になっていたことなど、様々なことに満足できなかったからでしょう。より深く「本覚思想」を体得し修行するためには、叡山を下ることがやむを得ない、かつ最良の選択だったのだと思われます。
しかしながら、これら祖師たちの内なる命の源泉は、すべて伝教大師が投げかけた「仏教の一つの波紋」に他なりません。弘法大師による密教完成の美しさは完璧であったため、逆に新しい宗教が興隆する余地(隙)を与えなかったのです。
これこそが、私たちが伝教大師を「日本仏教の始祖」と仰ぐ理由なのです。
