人それぞれ、でよいのではないか。
争いを避けたいときに、そう考える人はいます。ただし、善悪まで「見方次第」にしてしまうと、何を基準に行動すればよいのかが残りません。
ニガンタは、何を説いたのか
六師外道の最後に挙げられるニガンタ・ナータプッタは、本名をヴァルダマーナといい、ジャイナ教を開いた人です。
ニガンタは、永遠に続く霊魂を説きました。人間の魂は本来清らかなのに、過去の業(ごう)、つまり行いが微細な物質となって付着し、迷いの世界に縛られている。輪廻を止めるには、苦行で過去の業を消し、新しい業をやめなければならない、と考えました。
修行者には、多くの規律がありました。殺生をしない、嘘をつかない、盗みをしない、淫らな行いをしない、自分の物を持たない。
この五つが、まず守るべき戒でした。
なかでも不殺生が重んじられ、微生物を吸い込まないように口を覆い、水はこして飲み、虫を踏まないように掃きながら歩いた、と伝えられています。
衣をまとわず、断食の末に命を終えることが称賛されることもありました。
ニガンタ自身も食を断って死に、有力な弟子十一人のうち九人が同じ道を選んだ、といいます。
ある点から見れば、という語り方
サンジャヤのように、すべてを疑うだけでは、生きる指針は出てきません。「真理はない」とさえ、断言した瞬間に崩れるからです。
ニガンタはそこを反省し、「事実はこうだ」とは断定せず、「ある点から見ると、こうだ」と限定して語りました。
これを不定主義、西洋哲学でいう相対主義と呼びます。
たとえば「魂と体は同じか」には、こう答えます。体が傷つくと魂も苦しむ、という点では同じ。体が滅びても魂はなくならない、という点では異なる。


善悪まで、見方次第にすると
一つの問いを、見る点によって分けること自体は、乱暴な断定を避けるやり方です。しかし、魂と体が同じか異なるかで、人生の目的の向きは変わります。
「ある点では同じ、別の点では異なる」だけでは、どちらへ歩けばよいのかが決まりません。
善悪にこの語り方を持ち込むと、どんな行為も、本人が善だと思えば「その人にとっては善」になってしまいます。
ある集団を滅ぼすことが正しい、とその側が考えたとしても、傷つけられた人の苦しみが、見方の違いで消えるわけではありません。
第二次世界大戦下のドイツで、特定の人々を排除することが正しいとされた歴史は、その例です。
環境をめぐる会議で、「先進国は成長のために環境を壊したのだから、自分たちにも同じ権利がある」と言われたとき、国境を越える被害を前にして、「見方が違えば善も変わる」と言うだけでは、何をすべきかは決まりません。
学問で意見が割れたときも同じです。どちらが正しいかを吟味してこそ、相手の主張を真剣に聞いたことになります。「君から見ればそうだろう。
僕から見ればこうだ」で終えるのは、その問いを調べることをやめる態度です。
中道は、両方をぼかすことではない
ゴータマ・ブッダの教えは、何も断言しない懐疑でも、「見方が違えば善悪も変わる」という相対でもありません。偏った両端を退ける、中道です。
中道は、対立する意見を両方とも正しいと丸めることではありません。極端な見方を離れて、行いと結果の道理を見ることです。

見方を分けることと、善悪まで見方次第にすることは違います。
仏教の中道は、争いを避けるために基準を手放すことではなく、極端を離れて道理を見ることです。
