天台宗においては、大聖釈迦牟尼世尊(お釈迦様)の教えを大きく「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」の二つに分けます。この二つの教えは、どちらも同じ仏様(教主)が説かれた教えであるという点から言えば、本質的な違いや差別はありません。ただ、真理からの「遠い・近い」、あるいは教えの「浅い・深い」といった相違があるだけなのです。
例えるなら、ここに高さ一万尺(約3,000メートル)の高い山があると考えてみてください。
その山の頂上に立てば四方の眺めは素晴らしいものですが、頂上に至るまでの道のりは決して簡単なものではありません。しかし、低いところから次第に高くなって山が形作られているのであって、「頂上だけが山」というわけではないのです。
また、その山に登る人々の側から考えても、体力や準備の違いによって、ある人は見事頂上まで極めることができますが、ある人は中腹までしか登れないという場合があるでしょう。
仏教の教えにおいて、「密教」と呼ぶのは、この高い山の頂上のような「高いレベル(程度)の教え」を指します。一方、「顕教」とは、麓や中腹のような「比較的分かりやすいレベルの教え」を言います。したがって、低いレベルの場所(顕教)へは誰でも行き着くことができますが、高い場所(密教)へは容易にたどり着くことはできません。
しかしながら、密教には「密教を受け入れるための特別な性質(機根)」があります。そのため、高いレベルの教えであっても、必ずしも費やした時間や受けた教育の量だけで決まるわけではありません。学問や修行の経験が少なくても、直感的に密教の教えが「すっと分かる人」もいるのです。こうした人々を「密教の頓機(とんき:速やかに悟りを開く素質を持つ人)」と呼びます。
それに反対する人々、つまり学問や修養を一つずつ積み重ねることで、だんだんと密教の深みに這入っていく人々を「漸機(ぜんき:少しずつ進む素質を持つ人)」と言います。
言葉の意味を紐解くと、
- 顕教(けんぎょう) は「あらは(顕)なる教え」と読みます。
- 密教(みっきょう) は「秘密の教え」を意味します。
「顕教」は物事を明らかにして説く(あらはなる)ため分かりやすく、「密教」は奥深く隠されている(秘密なる)ため、一般的には分かりにくいということになるのです。

