真面目に生きている人が、なぜ苦しみ続けるのでしょう。
反対に、悪いことを重ねた人が、なぜ安楽に暮らしているのでしょう。これは、因果の道理を考えるとき、誰もが一度はぶつかる疑問です。
「天道は善人の味方」のはずなのに
老子は、「天道は親なし。常に善人に与す」と説きました。天の道は誰かを特別扱いするのではなく、いつも善人の側に味方する、という意味です。
「善い行いをすれば幸福に、悪い行いをすれば不幸になる」という因果の道理を、短く表した言葉とも言えます。
ところが現実を見ると、正義の人が殺され、凶悪犯が裁かれずに天寿を全うすることがあります。
善人が必ず幸福に、悪人が必ず不幸になるとは、思えない場面があるのです。
顔回と盗跖
中国の歴史家・司馬遷は、孔子の愛弟子だった顔回を高く評価していました。
顔回は「一を聞いて十を知る」秀才で、質素な暮らしにも耐え、師の信頼を一身に集めていた人物です。
しかし、顔回は食べる物にも困る暮らしの末、若くして亡くなりました。
一方、同じ時代の盗跖(とうせき)は、大勢の手下を従えた大盗賊です。
殺人、放火、強盗など、あらゆる悪事を重ねたにもかかわらず、安楽に畳の上で死んだと伝えられています。

司馬遷の問い
この現実を見て、司馬遷は「天はわれを亡ぼせり」と嘆きました。善人が苦しみ、悪人が栄えるなら、天の道は本当に善人の味方なのか。
孔子も、顔回の死を深く悲しみました。すぐれた人が報われず、悪事を重ねた人が長生きする。その光景は、現世だけを見れば、どうしても納得できません。
現世だけでは、答えが足りない
ここで大切なのは、「現世だけを見て因果のすべてを判断できるのか」ということです。
善い行いをした人が、その場ですぐ幸せになるとは限りません。悪い行いをした人が、すぐに罰を受けるとも限りません。
原因と結果のあいだには、時間という縁があります。
仏教では、行為の結果が今生ではなく、来世に現れることもあると説きます。
現世の一場面だけを切り取ると、「善人が損をした」「悪人が得をした」と見える。しかし、因果は一生の長さに閉じていないのです。

「なぜ善人が不遇なのか」という疑問は、因果を否定するためではなく、現世だけでは因果の全体を見られないことを教えてくれます。
