幸せも不幸も、自分の行いが作り出している

因果の理法・運命の法則

幸せも不幸も、自分の行いが作り出している

「どうして、私だけが」

そう思った夜は、ありませんか。

頑張ってきたのに、報われない。気をつけていたのに、痛い目に遭った。理由がわからないまま、心だけが沈んでいく。

そんなとき人は、「運が悪かった」「これは偶然だ」と言いたくなります。原因のない不幸が、空から降ってきたように感じるからです。

でも、仏教はそこに、別の見方を置きます。

人が「偶然」と呼んでいるものは、原因がないのではありません。原因が、まだ見えていないだけです。まいていない種が、突然芽を出すことはありません。

「運が悪かった」と言いたくなる夜に

すべての結果は、原因と縁が結びついて生まれます。

縁(えん)とは、行いを取り巻く条件や環境のことです。土、天気、出会った人、そのときの自分の心。種だけでは花は咲かず、種と縁がそろって、結果になります。

この世に、原因のない出来事は一つもありません。

だとすれば、私たちの運命も、神さまから一方的に渡されたものでも、サイコロで決まったものでもありません。自分の行いが、縁と結びついて作り出したものです。

これを、仏教では自業自得(じごうじとく)と言います。自分がまいた行いの結果を、自分が受ける、という道理です。

因と縁がそろって結果になる。種だけでは花は咲かない

「運命」には、三つの意味がある

ここで一度、言葉を整理しておきましょう。「運命」は、日常では一つの言葉のように使われます。でも、人がこの言葉に込めている意味は、大きく三つに分かれます。

一つ目は、人間を超えた力から与えられた幸せや不幸。
神や見えない力が、あらかじめ人生を配っている、というイメージです。多くの人が「運命」と聞いて、まず思い浮かべるのはこちらではないでしょうか。

二つ目は、原因なくやってきた幸せや不幸。
いわゆる「運」です。たまたま良かった、たまたま悪かった、という感覚に近いものです。

三つ目は、自分の行いが生み出す幸せや不幸。
ここから先の連載で大切にしていく「運命」は、この三つ目です。

運命には三つの意味がある。与えられた運命、偶然の運、自分で作る運命

一つ目や二つ目のように感じる出来事も、よく見ると、自分の種まきと縁が結びついた結果であることが多い。そのことに気づくと、「なぜ私だけが」という問いの置き場所が、少しずつ変わっていきます。

サルトルが残した、一本の言葉

フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル(1905〜1980)は、20世紀を代表する思想家の一人です。

サルトルは、「人間は、あらかじめ決まった設計図を持って生まれてくるのではない」と考えました。ナイフには、作られる前から「切る」という役割があります。人間には、そういう完成された役割が先に用意されているわけではない。

まず存在して、それから自分の選択と行為によって、自分という人間を作っていく。この考え方を、実存主義(じつぞんしゅぎ)と呼びます。サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」は、このことを指しています。

そのサルトルは、著書『実存主義とは何か』のなかで、こう表現しました。

人間の運命は、人間自身のなかにある。

自分の運命は、自分が作る。自業自得に、例外はない。サルトルは、その道理を一本の文にしています。

これは特別な人だけの信念ではありません。私たちは普段から、どこかでこのことを前提に生きています。

約束を守れば信頼される、と信じている。人を傷つければ関係が壊れる、と知っている。勉強も、仕事も、家庭も、「まいたものが返ってくる」という感覚の上に成り立っています。

苦しいときだけ、その前提を手放して、「これは運のせいだ」と言いたくなる。それもまた、人間らしい反応です。

まいた種は、必ず生える

自業自得は、三つの言葉に分けて覚えると、日常に戻しやすくなります。

善因善果、悪因悪果、自因自果。まいた種は必ず生え、まかぬ種は生えない

善因善果(ぜんいんぜんか)
善い行いをまけば、善い結果が現れます。

たとえば、小さな約束を守り続ける人がいます。一度では目立ちません。でも、その種は信頼という花になって、あとから自分を支えます。「あの人になら頼める」と言われる関係は、偶然の贈り物ではありません。

悪因悪果(あくいんあっか)
悪い行いをまけば、苦しい結果が現れます。

相手をないがしろにする言葉、見て見ぬふり、自分さえ良ければいいという選択。その場では何事も起きないように見えても、孤立や不信は、時間をかけて実を結びます。

自因自果(じいんじか)
自分のまいた行いの結果は、自分に現れます。

他人の畑にまいた種が、自分の皿に盛られることはありません。自分が受け取る幸せも不幸も、自分がまいた種に応じてやってきます。

例外に見えても、種は土の中にいる

それでも、「真面目に生きているのに苦しい」「悪いことをしている人のほうが楽しそうだ」と感じる日はあります。

その違和感から、「運命は神が与えた」「運が悪かっただけだ」という考えが生まれます。今すぐ花が咲かないと、種などなかったように思えてしまうからです。

花は、まいたその日に咲くとは限りません。土の中で、見えないまま育っている時間があります。遅いとか早いとかの違いであって、まいた種が消えるわけではありません。

逆に、まいていない種が突然生えることもありません。種をまいていないのに、偶然だけ幸せになったり、原因もなく不幸になったりすることはない。これが、この章のいちばん大切な一点です。

「運命」の三つ目の意味は、自分の種まきの結果として現れた幸せや不幸です。まいた種は、必ず生える。自分が受ける幸・不幸は、来るべくして来たものです。まかぬ種は、絶対に生えません。

もし今、理由の見えない苦しさの中にいるなら、自分を責めるためにこの話を使わないでください。

「すべて自分のせいだ」と自分を追い込むための言葉ではありません。見えないところに、すでに原因と縁がある。だから、これからまいていく種で、これから先は変えられる。その希望のための言葉です。

今日、どんな種を一粒まけるでしょうか。

大きなことである必要はありません。一つの約束を守る。一つの言葉を丁寧にする。その一粒が、あなたの運命の材料になります。

運命は、どこかから降ってくるものではありません。あなたの行いの中に、すでに芽を持っています。