善いことをしたのに、悪いことばかり起きる。
そう感じると、因果の話はうそのように聞こえます。ブッダは、その時間差まで含めて説いています。
善いのに、苦しい
自分の行為が目に見えない力となって残り、引き金となる縁が結びつくと、幸福や不幸という見える結果になる。これが因縁果の道理です。
行いのあと、すぐ縁が来るとは限りません。
だから善いことをしても、必要な縁がそろうまでは幸せは現れず、先に不幸が来ることもあります。それでも、善い因と縁が和合すれば、幸せは現れます。
水瓶は、一滴で満ちない

まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福に遇う。
『ダンマパダ』は続けます。「その報いは私には来ない」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ落ちれば、水瓶も満たされる。
気をつけている人は、少しずつ善を積めば、やがて福徳に満たされる。
悪も同じです。報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。熟したときには、わざわいに遇う。
愚かな者は、悪いことをしても報いが見えないあいだは蜜のように思い、現れたときには苦悩を受ける。
「悪をしても幸せな人がいる」と思うのは、五年、十年という短い期間だけで見ているからです。種は、まいた日に芽を出すとは限りません。
「善をしたために不幸になった」と思うのも、同じ見落としです。
助けて、命を落とした人
駅のホームに落ちた人を助けようとして、自分も命を落とす。通り魔に襲われた人をかばって、自分も傷つく。一見、善い行いが悪い結果に見えます。
そうではありません。「助けた」という善い行いが、直後に「死」という悪果として熟したのではない。
善い種からは善い結果、悪い種からは悪い結果しか現れません。その場で目に見えなくても、善い行いは必ず幸福を実らせる。
命を落とした人の果報は、来世に受ける、とブッダは説きます。善い種は消えず、悪果を引き起こすこともありません。
人生の一場面だけ切り取ると、「善いのに不幸」「悪くても楽しい」と錯覚します。
今の行為の結果を来世に受けることもあれば、前の生の業の報いが今生に現れることもある。
怨みは、怨みでは静まらない
遠い過去の報いが、今めぐって現れたとき、それを自分の行いの結果だとは思えません。出てくるのは、他人を恨む心です。
それでは憎しみが憎しみを呼び、新しい不幸が生まれるだけです。
『サンユッタ・ニカーヤ』は、殺す者は殺され、怨む者は怨みを買う、と説きます。
『ウダーナヴァルガ』は、この正しい教えを聞かない人は、短い人生なのに他人に怨みを結ぶ、と嘆きます。

怨みは、怨みによっては決して静まらない。怨みのないことによって静まる。
道理を知る人は、怨みを作らない。今の苦しさが誰かのせいだとしか思えないときほど、新しい恨みの種をまかないことが、自分を守る行いです。
花が遅いからといって、種がなかったことにはなりません。恨みは、次の不幸の種です。静まる道は、恨みを返さない側に立つことです。
