五蘊(ごうん)の分類:「私」は仮の集まりにすぎない

唯識

五蘊(ごうん)の分類

サンスクリット語のスカンダ(skandha、音写すると塞建陀)は、新しい翻訳では「蘊(うん)」と訳されます。同じ種類のものを寄せ集め、一つにまとめたもの、という意味です。五蘊は、その集まりを五つに分けたものです。

私たちは日々、「これが私だ」と感じて生きています。唯識は、その「私」を一つの固まりとして扱わず、五つの集まりに分けて見ます。分けて見ることで、そこに変わらない実体はない、と気づくためです。

五蘊とは

五蘊は、次の五つです。

  1. 色蘊(しきうん):物質の側の集まり
  2. 受蘊(じゅうん):感じる働き
  3. 想蘊(そううん):思い描き、とらえる働き
  4. 行蘊(ぎょううん):それ以外の心の働きと、心にも物にも属さない概念
  5. 識蘊(しきうん):心の主体である八つの識

以下、それぞれの中身を省かずに見ていきます。

1. 色蘊(しきうん)

色蘊には、十一種の色がおさめられます。眼・耳・鼻・舌・身の五根、色・声・香・味・触の五境、そして心にのみ対する色である法処所摂色(無表色などもここに含まれます)です。

【具体例】
朝、鏡に映る顔、声の調子、服の感触。それらは「私の体」として一つにまとまって見えます。しかし目で見る働き、見える色かたち、耳で聞く働き、聞こえる声は、それぞれ別の条件で生じては消えます。十一の色が一時的に集まっているのであって、その奥に固定した「私の物質」があるわけではありません。

色法の五根と五境については、五位百法の「色法」の五根六境でも解説しています。

2. 受蘊(じゅうん)

受蘊とは、遍行心所のなかの「受」のことです。心が対象に触れたとき、快・不快・どちらでもない、という感じが生まれる働きです。

【具体例】
温かいお茶を一口飲んで「美味しい」と感じる。その直後にメールの文面を見て「嫌な予感がする」と感じる。感じ方は次々に入れ替わります。美味しいと感じた瞬間も、嫌だと感じた瞬間も、感じそのものが「受」であって、感じ続ける不変の私がそこにいるわけではありません。

3. 想蘊(そううん)

想蘊とは、遍行心所のなかの「想」のことです。対象をとらえ、名前をつけ、イメージとして心に描く働きです。

【具体例】
相手の短い返事を見て、「怒っているな」と想像する。まだ言葉にはしていなくても、心のなかで相手の表情や続きの会話を組み立てています。この想像が、あとから「私は軽く扱われた」という言葉になって出てきます。想は、経験に絵と名前を与える働きです。

受と想は、あらゆる心にともなう遍行心所のなかに説かれます。

4. 行蘊(ぎょううん)

行蘊には、四十九の心所と、二十四の不相応行がおさめられます。

心所は全部で五十一あります。そのうち受と想は、すでに受蘊・想蘊として独立しています。残りの四十九(作意・思・欲・勝解・念・定・慧、善の十一、煩悩、随煩悩、不定心所など)が、行蘊に入ります。善い行いも、怒りや怠りも、ここにおさめられます。

二十四の不相応行は、物質でも心でもなく、両者の関係のうえで仮に立てられる概念です。生・住・老・無常、名、句、文などがこれにあたります。

【具体例】
列に並んでいるとき、イライラして舌打ちしたくなる(煩悩)。それでも「ここは譲ろう」と意志を働かせて黙っている(善の心所)。この一連の動きを、あとから「私は我慢強い人間だ」と一つの性格のようにまとめます。実際には、その都度はたらいた心所と、「この人はこういう人だ」という名前(不相応行の「名」)が集まっているだけです。

不相応行については、物質でもなく心でもない不相應行法についてをご覧ください。

5. 識蘊(しきうん)

識蘊には、諸々の八識がおさめられます。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識に、末那識と阿頼耶識を加えた八つです。見ること、聞くこと、考えること、そしてその根底で「私」という感じを支え続ける心の主体が、ここに集められます。

【具体例】
同じ景色を見ていても、疲れている日と穏やかな日では受け取り方が違います。見ているのは眼識、意味づけているのは意識、その背景で「自分が見ている」という感じを離れないのが末那識のはたらきです。識もまた、条件に応じて生じては移ろいます。

八識の全体は、私たちの心とは何か?「心王」(八識)で解説しています。

五蘊は仮の存在である

以上の五蘊は、どれも寄せ集まった、一時的にあるだけの仮の存在(暫有的仮在の法)にすぎません。それなのに衆生は、つねにこれを実在のものだと誤って認め、固執します。これを「実我の執(じつがのしゅう)」といいます。

この執が、生きとし生けるものを三界(欲界・色界・無色界)に沈ませ、迷いのなかに留めます。

【具体例】
体の調子、今日の気分、自分についての物語、これまでの行い、いま意識していること。これらが揃うと、「まぎれもないこの私が、ここにいる」と感じます。しかし体は歳とともに変わり、気分は一日で何度も入れ替わり、物語は記憶の編集です。集まっているあいだだけ「私」に見えるのであって、集まりがほどければ、つかむべき実体は残りません。

この誤った執を断ち切らせるために、五蘊を説きます。五つの集まりが仮の存在であると悟らせるためです。

我を執する五つのあり方

そして、我を執することには五つの種類があります。五蘊は、この五つの執に一つずつ対応して説かれます。

1. 身具執事(しんぐしゅうじ)

これは、生きものが五根と五境を、実在の我だと誤って認めることです。目や耳や身体、見えるものや聞こえるものを「私そのもの」だと取り違えます。これに対して、それらが仮の存在であると知らせるために、色蘊を説きます。

【具体例】
「この顔が私だ」「この声が私だ」と思うとき、五根と五境を私の本体にしています。髪が伸び、声が枯れ、眼鏡を替えれば、その「私」の材料は入れ替わっています。色蘊を分けるのは、体や感覚の世界を私だと決めつけないためです。

2. 受用我事(じゅようがじ)

これは、生きものの心のなかにあって、受の心所が、意にかなう境(順境)と意に逆らう境(逆境)に触れ、苦しみや楽しみを感じるので、その感じを我とすることです。これに対して、受を特に一つの蘊として立てます。

【具体例】
褒められて嬉しく、「嬉しい私が本当の私だ」と思う。非難されて苦しく、「苦しい私が私だ」と思う。快も苦も、境に触れて生じた受です。受を独立した蘊にするのは、苦楽の感じを私の正体にしないためです。

3. 言説我事(ごんぜつがじ)

生きものは、心のなかでまず想像し、そのあとこれを言語にして発表します。ですから、想像によって我見が助長されることを知らせるために、想蘊を説きます。

【具体例】
会議で発言する前に、心のなかで「自分は正しく、相手は分かっていない」と場面を想像します。口に出したとき、その想像は「私はこういう人間だ」という自己像をさらに固くします。想が先に絵を描き、言葉があとからそれを発表する。想蘊を説くのは、この想像が我見を育てる道筋を見せるためです。

4. 造作一切法非法我事(ぞうさいっさいほうひほうがじ)

ここにいう「法」とは善のことであり、「非法」とは悪のことです。生きものの善悪の行いの筋道(行綱)は、みな我見から現れてくる迷いであることを知らせるために、行蘊を説きます。

【具体例】
人を助けるときも、「助けてあげた私」が残ることがあります。人を傷つけるときも、「やられたからやり返した私」が残ります。善い行いも悪い行いも、行いそのものに加えて、「その行いの主は私だ」という我見から出てきます。行蘊を説くのは、善悪の行為の連なりが、我見から発現する迷いであると知らせるためです。

5. 彼所依我自自体事(ひしょえがじじたいじ)

「彼」とは、前の四蘊をいいます。前の四蘊は、みな識に依って現れるので、生きものが我と執するその本体は、諸々の八識であることを知らせるために、識蘊を説きます。

【具体例】
体(色)も、苦楽(受)も、想像(想)も、善悪の行い(行)も、見たり考えたりする識がはたらいて、はじめて「自分のこと」として立ち現れます。最後に残りやすい執は、「感じているこの意識こそ、私の本体だ」というものです。識蘊を説くのは、その意識も八つの識の集まりであって、それらに依って前の四蘊が現れている、と知らせるためです。

五つの執は、それぞれ別の場所に「私」を置きます。体に置く。苦楽の感じに置く。想像と言葉に置く。善悪の行いに置く。そして、それらを成り立たせている意識そのものに置く。五蘊は、その置き場所を一つずつ仮の集まりとして示す教えです。

全体の分類は、すべての事象を分類!五位百法とはとあわせて読んでいただくと、色・心所・不相応行・識の位置がさらに明確になります。