伝教大師(最澄)の仏教者としての偉大な功績はこれまで紹介してきましたが、ここでは大師の「人格(ひととなり)」について、思いつくいくつかの点を記してみたいと思います。
固き意志と不屈の精神
伝教大師は、意志の非常に強い、頑固なほどの信念を持った師でした。
わずか19歳にして、人の足跡がほとんど途絶えた比叡山の奥深くに入られました。しかも、「自分は『六根相似位(ろっこんそうじい:心身が清らかになり悟りに近づく段階)』を得るまでは世に出ない。また、清らかな戒律(浄戒)を保つことができないならば、信者(檀主)からの供養(布施)は受けない」と固く誓われました。そして、山中にあって仏道研究や瞑想(冥想)に打ち込み、厳しい修行を重ねられたのです。
28歳の時には、比叡山の根本中堂(こんぽんちゅうどう)が完成し、その落慶供養の後に桓武天皇が行幸(お出まし)されたと言われていることを見ても、大師が単なる凡庸な僧侶ではなく、その意志の強さが周囲から高く評価されていたことがうかがえます。
特に大師は晩年になると、仏教の教え(教養)の面から、法相宗(ほっそうしゅう)の徳一(とくいつ)法師と激しい論争を繰り広げました(三一権実諍論)。また、「権実(仮の教えと真実の教え)」の問題については、奈良の南都僧綱(仏教界の指導者たち)とも論評を交わしました。
内面的には、新しく興った真言密教(空海の教え)からの圧迫もあり、一部の弟子たちは大師のもとを去り離散してしまうなど、まさに「四面楚歌(しめんそか:周囲がすべて敵である状態)」の中にありました。
しかし、大師はそれらの逆境や圧力に意志をくじかれることもなく、自己の主張を曲げることもありませんでした。徳一法師に対しても、南都の僧綱に対しても、最後まで「法戦(仏法の真理をめぐる戦い)」を続けられたのです。
弟子である光定(こうじょう)師への遺言として、次のように残されています。
「一個我の為に勿作佛、勿寫經、述我志」
(意訳:私一個人のために、仏像を造ったり経典を写したりするな。ただ私の志(真実の仏法を広めること)を後世に語り継げ。)
この言葉を見ても、大師の意志の強さ(頑固さ)がうかがい知れます。
しかもその一方で、大師は真言密教の研究にも努力を重ね、叡山(比叡山)仏教の基礎を固められました。大師はこのような四方が敵ばかりの逆境の中にあっても、あるいは弟子たちの多くが華やかな奈良(南都)を慕い、裕福な生活(万戸の食封)を追い求めて貧しい比叡山を捨て去るという、ひどく寂しい経験を味わっても、人生や周囲に対して、凡人が抱きがちな「暗い考え」を持つことはありませんでした。
「叡山誹謗を被るは過去の業の招くところなり、何ぞ己の業を顧みずして、更に他の非の來るを恨まんや、願くば、今生に償ふことを得て悪道に入らざらんことを。」(『顕戒論』より)
(意訳:この比叡山が非難や中傷を受けるのは、すべて私の過去世の行い(業)が招いた結果である。どうして自分の業を省みずに、他人の過ちや仕打ちを恨むことがあろうか。願わくば、この人生でその罪を償い終え、死後に悪道(地獄などの苦しい世界)に落ちないようにしたい。)
物事がうまくいっている順境の時には、人は立派なことを言えるものです。しかし、四面楚歌の崖っぷちに立たされた時に、これほど静かに自己を見つめ直せる人こそが真に尊いのです。
篤き慈愛(あつきじあい)
大師は、こうした岩のように固い意志を持つ一方で、優しい慈父(慈愛に満ちた父親)のような性格も備えておられました。
当時、弟子に「笞罰(ちばつ:むちで打つ体罰)」を加えることは一般的な習慣でした。しかし、大師はどのような場合であっても、体罰を加えるようなことは一切されませんでした。それどころか、他の弟子たちが時折、か弱い幼い童子(修行僧)を打つ様子を見るのさえ、耐えられないほどの苦しみを感じていたといいます。
大師はこうおっしゃっています。
「我生れてより、口に悪言なく、手に笞せず、我同法よ、童子を打たざれば我が大恩人なり。」
(意訳:私は生まれてからこの方、口で悪口を言ったこともなく、手でむち打ったこともない。私の同志(同法)たちよ、どうかあの子どもたちを打たないでほしい。そうしてくれれば、あなた方は私の大恩人である。)
この言葉を見ても、大師の優しく深い慈愛の一面をうかがうことができます。
生活の質素さ
大師はまた、非常に質素な生活を送っておられました。
桓武天皇、嵯峨天皇という二人の天皇から厚い帰依(信仰)を受け、比叡山の開祖と仰がれ、朝廷からも民間からも深い尊敬を集めた、世に並ぶ者のない傑出した指導者でありながら、その日常生活は極めてつましいものでした。
時には、書き損じた紙を繋ぎ合わせて使わざるを得ないほど困窮されたこともあります。着ていた衣服も、ただ垢がつかない程度の粗末な布であり、寝具には藁(わら)の布団を用いられました。
そして朝には、道端で托鉢(食を乞うこと)をして、ひとつまみの飯を受け取ってはそれを鳥に施し、秋には布を乞い集めて、冬の雪や寒さに備えられたのです。
「我等末法に生れて、師に遇はず、祖師の餘光に生きながら恩愛になれて、徒らに法に背き、戒を破り、飽食暖衣にあきたらずして美衣を求む。祖師の紙子の九十年に衝憶して泣くはたゞに、東谷の伽藍よりのみ呼ばれる言葉ではない。」(塩入亮思)
(意訳:私たち現代の僧侶は、正しい仏法が衰えた末法の時代に生まれ、真の師に出会うこともなく、ただ伝教大師(祖師)が残された偉大な功績のおかげで生かされていながら、世俗の情愛に溺れ、いたずらに仏法に背き、戒律を破っている。満腹になるまで食べ、暖かい服を着ているのに飽き足らず、さらに美しい衣服を求めている。大師が着ていた粗末な紙の衣(紙子)を九十年にわたって思い起こし、その恩徳に泣くというのは、決して比叡山の東谷の寺院からだけ聞こえてくる言葉(反省)ではないはずである。)
伝教大師の人生は、何よりもその高潔な人格と実践によって、今もなお私たちに多くの教訓を与えてくれています。

