夜、布団の中で、同じ問いを繰り返していることがあります。
「なぜ、あのときああなったのか」。
「自分は、どこで間違えたのか」。
答えは出ないまま、時計の音だけが進みます。
本当はとなりで眠っている人に聞きたい。けれど、そのまま朝を迎えてしまう。
そんな日々が、続いていないでしょうか。
問いを持つこと自体が、悪いわけではありません。
ただ、答えの出ない問いを繰り返しているあいだに、いま考えなければならない大事なことが、脇に置かれてしまうことがあります。

毒の矢を抜かなかった人
そんなとき、仏教の経典に、こんな話が残っています。中部経典『小マールンキヤ経』です。
弟子のマールンキヤプッタは、一人で考えます。
世界は永遠なのか、そうでないのか。
世界に果てはあるのか、ないのか。
霊魂と身体は同じなのか、別なのか。
悟りを開いた方は、死後に存在するのか、しないのか、両方なのか、どちらでもないのか。
そうした問いにお釈迦さまは答えられない。答えが得られないなら、修行の場を離れようか、と。
するとお釈迦さまは、静かにお答えになられます。
「私は、それらの問いへ答えるから修行へ来いとは言ったことがない」と。
そして、一つのたとえを話されます。
毒を塗られた矢を受けた人がいます。親族や友人は医師を呼び、早く矢を抜いてほしいと願います。
ところがその人は、抜く前に知りたいことがあると言います。
射た人の身分はなにか。名前と氏族はなにか。背は高く、低く、中くらいなのか。肌の色はどれか。村の人か、町の人か。弓はどの種類か。弦はなにでできているか。矢の軸はどの木か。矢羽根はどの鳥のものか。鏃はどの形か。
それがすべて分かるまで、治療を拒むというのです。
すると、それらが分かるより先に、その人は命を落としてしまいます。
お釈迦さまは、弟子に告げました。
世界が永遠であるかないかが決まっても、生まれ、老い、病み、死に、嘆き悲しむことがある。その事実は変わりません。
私はその苦しみが、この生涯のうちに静まる道を説いた。世界の果てや死後の有無は、その道に結びつかないのだから、説かなかったのです、と。

お釈迦さまが説かれたこと
このたとえは、「考えるのをやめなさい」という話ではありません。
では、なにを説かれたのでしょうか。
お釈迦さまがお答えにならなかったのは、求道とは関係のない問いです。
こうした、あえて説かれなかった問いを、仏教では無記(むき)と呼びます。記さない、という意味です。
説かれたのは、苦があること。苦が生じる原因。苦が静まること。そして、そこへ向かう道です。
仏教では、これを四諦(したい)と呼びます。四つの真理、という意味です。
弟子を苦しめていたのは、世界の果ての知識が足りないことではありません。
「それが分かるまで、私は歩かない」。
その条件のほうこそ、弟子の苦しみだったのです。
矢についての質問が、次々に増えていくのをみても、よくわかります。
一つ分かれば、次の一つが気になります。身分が分かれば名前を。弓が分かれば弦を。知りたくなる。
答えをそろえる作業には、終わりがありません。
これは、知りたい心を未熟だと責めているわけではありません。
知りたい。その気持ちは、誰にでもあります。
経典の弟子は、求道にあまり関係のない知識をたくわえることを、修行を続ける条件にしようとしました。
しかしお釈迦さまは、知識そのものには、苦しみから離れる道はないと教えられたのです。
私たちの矢は、どこにあるのか
では、私たちの矢は、どこにあるのでしょうか。
この話を、苦しんでいる人への叱責にしてはなりません。
大切な人を失ったあとに「なぜ」と問う心は、愚かな先延ばしではありません。悲しみの問いは、知識がそろえば消えるものでもありません。
たとえが照らしているのは、別の場面です。
伝えるべき一言を、相手の気持ちが完全に分かるまで、保留してしまうこと。
体が休みを求めているのに、不安の原因が特定できるまで、目を閉じないこと。
人と比べる材料を集めているあいだに、目の前の人の話を聞き逃すこと。
心当たりは、ないでしょうか。

矢は、いつも大きな出来事の形をしているわけではありません。
また、抜くことが、必ずしも大きな決断とは限りません。
今夜、終わりのない問いを一度脇に置いて、かけようと思っていた言葉を思い出してみる。
それも、矢に手を伸ばすことの一つです。
世界の果てが分かったとしても、今夜の心が静まるとは限りません。
お釈迦さまが残されたのは、疑問への回答の一覧ではありません。苦しみが終わるための道でした。
その道の上で、自分の矢がどこにあるかを、静かに見つめてみてください。

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