なぜ、こんな目に遭うのか、まったくわからない。
ギリシャ神話は、その理不尽を神の怒りとして描きます。因果の道理は、そこに法則がないことを問題にします。
理由の見えない罰
宿命論は、原因と結果のあいだに法則を認めません。これも因果の道理との大きな違いです。
アクタイオンとテイレシアス
予言の神アポロンには、妹アルテミスがいました。純潔の女神です。
ある夏、青年アクタイオンが狩りを終えて泉を訪れると、水浴びをしていたアルテミスと出会ってしまいます。
恥辱と怒りにかられた女神の力で、アクタイオンは鹿の姿に変えられ、自分が飼っていた猟犬に獲物と間違えられ、命を落とします。
別の話では、テイレシアスという男が、知恵と戦いの女神アテネの沐浴をたまたま見てしまい、目を失います。みだらな気持ちがあったわけではありません。
アテネは早まったことを悔い、テイレシアスに未来を知る心眼を与えた、と伝えられています。
二人とも、思いがけず見てしまっただけです。そこにあるのは女神の怒りであって、予測できる理屈ではありません。
こんな原因で不幸が起きる、と考えると、あらゆる科学の前提とぶつかります。

科学は、法則があると信じて探す
科学は、「いかなる結果も、もろもろの原因によって、法則に従って決まる」ことを前提にしています。
今は無秩序に見えることでも、将来、法則が見つかるかもしれない。原因と結果のあいだに法則があると信じなければ、科学者は法則を探す気になれません。
因縁果の道理とは、ある原因にある条件がそろうと、法則に従って結果が生じる、という道理です。
科学もこの大前提の上で自然法則を探し、発見してきました。
宿命論では、神が気まぐれに超自然の原因を起こした瞬間、定めた結果が、人間の努力と無関係に生じます。法則がないので、予測も変更もできません。
三つの言葉、もう一度
運命は決まっているから変えられない、が宿命論です。運命はまいた種に応じて、法則に従って決まる、が因果の道理です。
善い行為をまけば、善い結果が現れる。悪い行為をまけば、苦しい結果が現れる。自分のまいた結果は、自分に現れる。
理不尽に見える出来事の前で、「神の機嫌だ」と片づけると、次に何をすればよいかが消えます。
「どんな種に、どんな縁が結びついたのか」と問い直すと、今日の行いが再び意味を持ちます。

怒りだけの罰には、法則がありません。因果の道理は、原因と縁がそろったとき、法則に従って結果が来る、と教えます。
だから、これからの行いが未来を変えられます。
