無実なのに死刑にされるなら、正しく生きる意味はあるのでしょうか。
前の記事で見たように、ソクラテスの問いは、人々の自惚れを照らし、煙たがられました。その反発は、やがて法廷へと向かいます。
この問いに、ソクラテスは自分の最期をもって答えました。今日は、毒杯の前に立った哲人と、弟子プラトンが残した答えを見ていきましょう。
ソクラテスの裁判
アテネ市民の反発を買ったソクラテスは、70歳のとき、伝統的な神々を信じず、青年を堕落させたという事実無根の罪で裁判にかけられました。
当時のアテネでは、裁判官の前でうまく話せば、身を守れる場面もありました。街頭での討論をやめ、反省したふりをすれば、無罪になれた可能性もあったのです。
しかし彼は法廷でも信念を曲げませんでした。真実を語ることをやめるつもりはない。「千回殺されようと、真実を語り続ける」と言い放ったのです。
私たちの暮らしにも、似た選択があります。誤解を解くより、評判を守るほうが楽なとき。正しいことを言うと、仲間から距離を置かれるとき。そんな場面で、魂と評判のどちらを選ぶかが問われます。
真実を語るか、無罪になるか
判決の日、ソクラテスは死刑判決を受けました。弟子プラトンたちに見守られながら毒杯を仰ぎ、静かにその生涯を終えます。
無実の人が、なぜここまで苦しまなければならないのでしょうか。普通なら、へつらい、言い訳を並べ、命を守ろうとするかもしれません。
しかし、ソクラテスにとって、真実を曲げて生き延びることは、肉体を守って魂を傷つけることでした。正しく生きるとは、評判や命を守ることより、魂を悪くしないことだったのです。
因果の道理から見ても、いちばん重い結果は、外から見えない心のなかに残ります。嘘で逃れた評判は、すぐには崩れません。けれど、自分を欺き続けた心は、次の選択を少しずつ歪めていきます。

現世だけを見れば、割に合わない
表面的に、この世だけを見れば、罪を重ねながら安楽に暮らす人もいます。真面目に働き、人を思いやっても、報われないように感じる日もあります。
顔回のように善人が不遇を終え、盗跖のように悪人が安楽に長生きする——孔子の時代の話は、現代にも響きます。善をしても幸福になれず、悪をしても罰を受けないなら、誰が真剣に勉強し、仕事をするでしょうか。
苦しくても努力できるのは、善をすれば幸福になると信じているからです。しかし、善因善果・悪因悪果の理法が「この世の七、八十年だけ」で完結しないなら、目の前の不公平だけを見て、善を投げ出す必要はありません。
プラトンの答え
師を失ったプラトンは、現世で報いを受けなくても、その結果は必ず来世で受ける、と説きました。善をすれば必ず幸福になり、悪をすれば不幸になる。善と幸福がこの世で一致しないなら、来世で一致するはずです。
これは、「善人なら現世で必ず成功する」という浅い慰めではありません。むしろ、今は報われなくても、魂を悪くしないために正しく生きる、という厳しい道徳です。
「善人が幸福になっていない」という現実は、善因善果を否定する材料ではありません。人の人生が、七、八十年だけで終わらないなら、今はまだ結果が現れていないだけかもしれない。
プラトンは、清く正しく生きることを、目先の損得で判断してはならないと説きました。魂の幸福は、現世の評判より深く、長い時間のなかで完成するのです。次の記事では、カントがなぜ「来世はなければならない」と論じたかを見ていきます。
誰にも見えない場所で、正しいことを選び続けることは、すぐには花開きません。それでも、あなたが今日守った誠実は、明日まく種の質を変えていきます。

正しく生きることは、すぐ得をするためではありません。誰にも認められないときにも、自分の魂を悪くしないためです。
