「どうすれば、幸せになれるのか」
誰もが一度は、心のどこかでこう問いかけたことがあるはずです。古代ギリシャのソクラテスは、この問いを生涯、人々の前で投げかけ続けました。
しかし、真剣な問いだったのに、なぜ大衆から煙たがられ、やがて死刑に至ったのでしょうか。
今日は、その理由を、人生の目的と魂のことばとともに見ていきましょう。
西洋哲学の出発点
二千五百年にわたる西洋哲学の歴史で、最大の思想家の一人がプラトンです。
哲学者ホワイトヘッドは、「西洋哲学の歴史は、プラトンへの脚注である」と表現しました。
そのプラトンの人生を決定的に変えたのが、恩師ソクラテスの死刑でした。
七十歳で処刑された師のもとに、天才的な弟子がいたことは、後の思想史にとって大きな幸運でした。
プラトンは八十歳まで著作を続け、ソクラテスを主役とする膨大な対話篇を残しました。
ソクラテス自身は、一冊も著書を残しませんでした。私たちが今、その問いを読めるのは、プラトンが対話のなかに書き留めたからです。
「どうすれば、幸せになれるのか」
ソクラテスが人々に問い続けたのは、「人はいったい何のために生まれ、生きているのか。人生の目的は何か」ということでした。
幸せになる道は、目的を知ることから始まる、と信じていたのです。
当時の多くの人は、政治の目的を国民の安定した生活、経済を限られた資源の効率的な利用、医学を病気の治療と考えていました。どれも大切なことです。
けれど、一つずつ追いかけても、最後に残る問いがあります。
「その先で、何のために生きるのか」という問いです。
手段の先に、目的の問いが残る
健康診断で異常がなく、長く生きられる見込みがついたとき、ほっとします。
でも、命が延びたからといって、明日から何のために起きるのかが、自動的に決まるわけではありません。
望んでいた昇進が、決まった翌朝を想像してみてください。アラームは、いつもの時刻に鳴ります。役職名は、起きる理由までは連れてきません。
手段が手に入っても、「これで何のために生きるのか」が決まっていなければ、隙間は残ります。ソクラテスが突きつけたのは、この隙間でした。

「汝自身を知れ」と魂
デルフォイは、古代ギリシャで神託の場所として知られた神殿です。そこに刻まれた「汝自身を知れ」を、ソクラテスは、自分の内なる「魂」こそ最も知るべきものだ、という意味に受け取りました。
ここでいう魂は、幽霊のようなものだけを指しません。何を善いとし、何を恥じ、どこへ向かって生きるのかを決める、私たちの深い心です。
財産や名声や体の健康は大切です。しかし、それらを何のために使うのかを決める魂が荒れていれば、持ち物が増えても幸せにはなれません。
因果の道理から見ても、善い種をまく心の土台が、いちばん大切な因になります。
なぜ、大衆は煙たがったのか
アテネの街角で、ソクラテスは誰にでも問いを投げかけました。正義とは何か、勇気とは何か、そして幸せとは何か。
答えを教えるのではありません。相手の言葉を、一つずつ確かめます。
勇気について聞かれた人が、「危険から逃げないことだ」と答えたとします。
ソクラテスは、そこで答えを渡しません。「では、間違ったと知りながら、命令だから危険に残るのも勇気ですか」と、もう一度聞きます。
相手は言葉に詰まります。知っているつもりが、人前で崩れる。その恥ずかしさが、怒りに変わりやすいのです。
プラトンの対話篇にも、相手の「知っている」が崩れていく場面が残っています。ソクラテスの目的は、相手を貶すことではありません。自分の魂を知り、よりよく生きる道を探すことでした。
それでも、問いは自惚れを照らします。だから「煙たい人」と感じられ、無実の罪で裁判にかけられる道が開かれました。裁判で何を語ったかは、この連載の先で見ます。

問いを、自分へ静かに返す
誰かに問いかけられると、居心地が悪くなることがあります。その悪さは、あなたがダメだという宣告ではありません。
今夜、一つだけ聞いてみてください。今日、増やしたものは、何のためだったでしょう。
数字や評価や、いいね。それは手段です。その先で、自分は何を善いとしたのか。答えがすぐ出なくても、問いはそこに置いておいてください。
幸せへの問いは、人を煙たがらせることもあります。それでも捨てない問いこそ、魂を知る第一歩です。
