生まれたときから、運命は決まっているのか

因果の理法・運命の法則

糸巻きがほどけるまで転がり続ける宿命論のたとえ

「どうせ、生まれたときから決まっている」

頑張っても報われない夜に、そんな言葉が心に浮かぶことはないでしょうか。古代インドにも、その考えを正面から説いた人物がいました。

努力には意味がない、という声

マッカリ・ゴーサーラは、運命は最初から最後まで決まっており、どうあがいても変えられないと説きました。これを宿命論と呼びます。

宿命論とは、結果がすでに定められていて、これからの行いでは動かせないという考え方です。

ここでいう「努力が無意味」とは、ただ運が悪いというため息ではありません。善いことをしても、厳しい修行をしても、苦しみから離れる時期は早められない。何もしなくても、定められた時が来れば、いつかは終わる。そう考えると、今日の行いが未来を変える余地は、なくなってしまいます。

マッカリ・ゴーサーラとはどんな人か

今から約二千五百年前のインドでは、人生の苦しみや死後の世界について、さまざまな思想家が論じていました。そのなかでとくに有名だった六人を、仏教では六師外道と呼びます。外道とは、仏教とは別の道を説いた人という意味です。お釈迦さまと同じ時代に、多くの人の心を集めていました。マッカリ・ゴーサーラも、その一人です。

彼はアージービカ派という流れを率いた人物で、徹底した宿命論を唱えたことで知られています。幸福になるか不幸になるか、いつ苦しみから解放されるか。それさえあらかじめ定まっていて、人間の努力で動かす余地はないと説いたのです。

何もしないことを勧めた人物、というわけではありません。アージービカ派は厳しい苦行でも知られています。それでもマッカリは、その苦行が解脱の時期を早めるとは考えませんでした。

努力には意味がない、という声とマッカリという人の関係を示す図

糸巻きのたとえが教えること

マッカリは、糸を巻いた玉を地面に投げると、糸がほどけきるまで転がり続けるとたとえました。このたとえは、初期の仏典『沙門果経』に伝えられています。

糸の長さは、あらかじめ定められた輪廻の期間です。糸がほどけていくことは、生まれては死に、また生まれることの繰り返しです。そして糸がほどけきることは、苦しみの輪廻が終わることです。

どれだけ努力しても、糸の長さは短くできません。反対に、何もしなくても、定められた長さがほどければ、やがて輪廻は終わります。これでは、苦しみから逃れようとすることにも、修行で自分を変えようとすることにも、意味がなくなってしまいます。

これは怠けてよいという勧めではありません。人間の努力によって運命の長さを変えることはできない、という徹底した宿命論なのです。

糸巻きのたとえと諦めと、因果は違うの関係を示す図

仏教の因果の道理とは何か

では、お釈迦さまは運命についてどのように教えられたのでしょうか。仏教は、ものごとは原因と条件がそろって生じると説きます。これを因果の道理、あるいは縁起といいます。

ここで大切なのは、因と縁の違いです。花の種をまいたとしましょう。種があっても、水も日光もなければ、花は育ちません。水を与え、日当たりを整えると、育つ条件はそろっていきます。この場合、種が因、水や日光が縁、花が咲くことが果です。

勉強も少し似ています。本を開くことが因でも、時間や集中という縁がなければ、理解という果には届きにくいでしょう。

過去に起きたことは、今から消しきれません。それでも、これからの行いまで無意味になるわけではありません。今の行いも、未来に関わる新しい原因になるからです。縁が異なれば、生じる結果も異なり得ます。条件を整えれば必ず望みどおりになるという意味ではありませんが、行いが結果に影響を与えないわけではないのです。

宿命論と因果の道理は何が違うのか

「もう決まっているから、何をしても同じだ」と感じる日は、誰にでもあります。その気持ちに、この記事は責めを向けません。ただ、二つの考えは、努力の置き場所が違います。

比較マッカリの宿命論仏教の因果の道理
運命あらかじめ定められている原因と条件によって生じる
努力定められた運命を変えられない新たな原因や条件になり得る
善い行い解脱の時期を早められない行いには結果を生む働きがある
苦しみ定められた期間を経て終わる原因を理解し、取り除く道がある
向き合い方運命の定めに従う今の行いを大切にする

マッカリの説をそのまま受け取ると、今日の親切も、今日の反省も、未来に届かないことになります。仏教は、そこを厳しく見分けます。

今日の行いは未来に影響する

たとえば、友人とけんかをして関係が悪くなってしまったとします。「こうなる運命だったのだから、何をしても変わらない」。そう考えてしまえば、仲直りしようとする気持ちも起きにくくなります。

しかし、自分の言葉を振り返り、相手の話を聞き、謝るべきことがあれば謝る。その行いによって、関係がよくなる可能性はあります。もちろん、謝ったからといって必ず仲直りできるとは限りません。相手の気持ちやそのときの状況など、自分では決められない条件もあるからです。それでも、今日の行いが未来に何の影響も与えないわけではありません。

今、何を考え、何を語り、どのように行動するか。その一つひとつが、これからの人生に関わっていきます。

仏教は、今の苦しみを過去の行いだけのせいにもしません

体の調子やその日の気候のように、自分では選べなかった条件が重なることもあります。すべてを自分の責任にするのではなく、今できることを丁寧に積み重ねていく。それが因果の道理の生き方です。

生まれたときから運命は決まっているのか

「生まれたときから、すべての運命が決まっているのでしょうか」。マッカリ・ゴーサーラは、そう考えました。

仏教は、すべてが初めから定まっていて人間の行いでは変えられないとは説きません。私たちの人生には、自分ではどうにもならないことがあります。生まれた環境や、すでに起きてしまった出来事を自由に選び直すことはできません。

しかし、これからどのような行いをするかは、未来に関わる大切な問題です。昨日までの自分を変えられなくても、今日の行動を変えることはできます。そして、その行動も、明日の自分に影響していきます。

宿命論が「どうせ決まっている」と閉じるところを、因果の道理は「これから何をするか」に開いてくれます

宿命論は、努力の前に扉を閉じてしまいます。因果の道理は、過去の種は動かせなくても、これからの行いと縁が実りに関わり得ると説きます。どんな夜でも、今日の一歩が、明日の道を少しずつ変えていく。そう信じて歩み続けることに、仏教は意味があると教えるのです。