台密のお話 [三] 顕密二教の判(教えの分類)

天台宗の教え

顕密二教の判

釈尊(お釈迦様)の教えを「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」の二つに分類(判別)した最初の人物は、おそらく龍樹(りゅうじゅ)菩薩でしょう。龍樹菩薩の名著である『大智度論(だいちどろん)』には、「仏法に二種あり、一者は秘密、二者は顕示」と記されています。
慈覚大師(円仁)の著述などを拝見しても、二つの教えの分類(二教判)において、やはり龍樹菩薩の影響を受けておられることが分かります。これらが「顕密教判」の起源(濫觴:らんしょう)と言えるでしょう。もっとも、後世に完成された精密な分類と比べれば非常に素朴なものですが、単に「仏法に二種類ある」と述べたことは、天台宗でいう「化法(けほう:教えの内容による分類)」に当たり、立派な一種の教判と言って差し支えありません。

天台宗の開祖である伝教大師(最澄)には、明確な「二教の教判」は残されていません。後の五大院安然(ごだいいんあんねん)が「蔵・通・別・円・密」の五つの教判を立てる際、伝教大師の分類を引用していますが、むしろ大師の二教に対する高い見識は、弘仁9年(818年)5月13日に時の嵯峨天皇に奉った『六条式』の中に見出すことができるでしょう。
その中で大師は、「止観(天台)」と「遮那(真言・密教)」の二つの修行(両業)を立て、「車の両輪、鳥の両翼」のように完全に備えることで、国を守り、一宗の宝となる人材を輩出するという大方針を示されました。この「止観」と「遮那」の両業は、『法華経』と『大日経』、いわゆる「円教」と「密教」の二つであり、天台宗でいう「顕教と密教の両教」ではありませんが、東密(弘法大師の真言宗)ではこれを「顕密両教」に当てはめます。したがって、大師が制定された「両業」は円教と密教の二つの判定であり、一種の二教判と見られなくもありません。しかし、これを直ちに「顕密二教判」であるとは、もちろん言い切れません。

次に、弘法大師(空海)の二教判は、純然たる教えの分類であり、インド・中国・日本において、大師以前にはかつてなかったシステムでした。一言で言えば「劣顕・勝密(顕教は劣り、密教が勝る)」という判定です。真言秘密教宗を最上とし、その下に華厳宗を置き、さらにその下に天台宗を置くという順番で各宗派を配置しました。そして、天台の教えを「顕教」とし、自らの宗派を高く、他宗を低く判定したのです。

これに対し、天台宗(一家)の「円教」と「密教」は、内容が完全に一つであって勝劣はない(法華経と大日経は同じものである=二経同体)という判断を下し、天台宗独特の二教判を立てたのが、慈覚大師(円仁)でした。

慈覚大師の著述の中で、二教判について詳しく述べられているのが『蘇悉地経疏(そしつじきょうしょ)』七巻です。その中で、秘密の修行法が、修行者に速やかに大きな悟りを得させる点でさまざまな顕教に勝っている理由を説いた後、二教の違いを判定しています。その大要を記せば、第一に「三乗(さんじょう)」と「一乗(いちじょう)」を相対させて顕密を判定します。さまざまな三乗の教えは「真俗二諦(しんぞくにたい)」の円融(完全に溶け合っていること)を説かないから「顕教」とし、反対に一乗は二諦の円融を説くから「密教」であるとするのです。

「真諦(しんたい)」とは真理、すなわち中道の真理であり、十界(迷いと悟りの十の世界)の中では「仏界(仏の世界)」です。「俗諦(ぞくたい)」とは様々な現象として現れた世界であり、仏界に対しては「九界の妄法(迷いの世界)」です。
「真理と現象、迷いの世界(九界)と仏の世界(仏界)が別々である」と教える法門は、真諦と俗諦が隔たっているため、人間と仏様とは全く別個の存在ということになります。したがって、人間はこのままでは仏になることはできません。
一方、「仏界すなわち妄法であり、妄法すなわち真如(真理)である」と理解すること、つまり「差別のある迷いの世界のそのままが、平等で絶対的な真如である」と説くがゆえに、差別のある現象(事法)のままで平等の真理(真如)を教える「一乗」の法門は、理屈において「事即真(現象がそのまま真理である)」と言えるのです。あえて図式化してみましょう。

【一乗教】(密教)

【三乗教】(顕教)

以上のように、一乗教と三乗教を対照させ、「さまざまな一乗教は、世俗(現象)と勝義(真理)、すなわち真俗二諦の円融不二を説くから密教とし、さまざまな三乗教はこれを説かないから顕教とする」というのが慈覚大師の判定です。これによれば、さまざまな円教はすべて一乗教であるから「密教」であり、蔵・通・別といった三教は「顕教」となるのです。

第二に、一乗教の中で、さらに「三密」を説くか説かないかによって顕密を判定します。
三乗教に対して、一乗教は二諦の円融を説くので「密教」ではありますが、その中(例えば『法華経』など)には具体的な三密の作法を説かないため、これを慈覚大師は「理密(りみつ:真理としての密教)」と解釈しました。
これに対して、『大日経』や『金剛頂経』などの経典は、二諦円融の理密の上に、さらに具体的な「三密の作法(事密)」を説くので、これを「事理倶密(じりくみつ:事と理の両方が備わった密教)」とします。説かれている真理は『法華経』などと同じですが、事密を説く分だけ丁寧であるため、円教と区別して「倶密の教え」とされました。ゆえに、説かれている真理は円教と密教で全く同じですが、事密を説かないのが「円教」、事密を説いたのが「密教」であり、その根底においては二教に差別はないとするのが、天台宗の「円密二教観」なのです。

これは、一乗教の中で三密を説くか説かないかによって区別したものであり、前の「三一相対」よりさらに一歩進めた一種の二教判です。ただし、これは「理密」か「倶密」かという程度のことで、あくまで密教の中での違い、円教の中での区別であり、天台宗の立場から言えば、いわゆる「顕教と密教の判定」ではありません。

第三に、単に形を伴う「有相の三密を説くものを密教とし、説かないものを顕教とする」という考え方もあります。これによれば、『法華経』もやはり「顕教」ということになります。
天台宗(一家)においては、第一の「三乗と一乗を相対させて、一乗教を密教とする」考え方を正しい教義(正義)とし、かつ特徴とするものと心得ます。なぜなら、伝教大師は天台宗としての明確な教判を立てずにお亡くなりになったので、その直弟子である慈覚大師の判定が宗派の正義となるべきであり、伝教大師の御心も第一の意義にあると思うからです。そしてこのような判定は天台宗独特であり、その後の学者たちも皆これを使用しているからです。しかし、この意味から言えば、本宗は「法華一乗宗」であり、また「真言一乗宗」であるということにもなります。