台密のお話 [二] 三密(有相と無相の三密)

天台宗の教え

三密——有相と無相

「三密(さんみつ)」とは、密教における最も重要な教義(要義)です。
これは、私たちの「身(しん:身体の行い)」「口(く:言葉の行い)」「意(い:心の行い)」の三方面から、「私たち衆生(しゅじょう)と仏様とは本来一体である」ということを示しています。さらに、この三方面の修行を通じて「生仏一如(しょうぶついちにょ:生きとし生けるものと仏は同じである)」という境地に達し、父母から授かったこの身体のままで、ただちに仏と同じ位(悟りの境地)に座して活動する(即身成仏)ことを目指すものです。

この「三密」には、「有相(うそう)の三密」と「無相(むそう)の三密」の二つがあります。

有相(うそう)の三密

具体的な形や作法を伴う「有相の三密」について、密教の重要な論書である『菩提心論(ぼだいしんろん)』には次のように明かされています。

「一に身密とは、契印を結んで聖衆を召請するが如き是なり、二に語密とは、密かに眞言を誦して、文句をして了々分明ならしめ、誤謬無からしむるが如きなり、三に意密とは、瑜伽に住して、白淨月の圓滿に相應して、菩提心を觀するが如きなり。」
(意訳:第一の『身密(身体の秘密)』とは、手で印(契印)を結んで仏や菩薩たち(聖衆)を招き寄せること。第二の『語密(言葉の秘密)』とは、心の中で真言を唱え、その一語一句をはっきりと間違いなく発すること。第三の『意密(心の秘密)』とは、精神を集中させ(瑜伽に住し)、白く清らかな満月のように心を円満に保ちながら、悟りを求める心(菩提心)を観察することである。)

つまり、例えば観音様をご供養する修法(観音供)を行う場合で説明しましょう。
行者(修行者)が観音様の御前に進み出て、手では観世音菩薩の印(身密)を結び、口では観世音菩薩の真言(語密)を唱え、心では観世音菩薩のお姿を念じます(意密)。すると、私たち行者の口から唱え出された真言の音が、本尊である観音様の頭に入り、さらに観音様の足から出て行者のへそ(臍)に入り、へそから口へと至り、そしてまた本尊へと伝わっていきます。
このようにして、本尊と行者が互いに行き交い(渉入)、本尊の身・口・意の三つの働き(三業)と、行者の三業が「二つであって実は二つではない(二にして不二)」という不思議な境地に至り、「自分の身体がそのまま本尊である(己身即本尊)」と観想するのです。

また、平安時代の天台僧・五大院安然(ごだいいんあんねん)が著した『秘密即身義(ひみつそくしんぎ)』によれば、次のように説明されています。

「手を以て印契を作つて如來の事業をなす時、自身本有の佛部の諸尊が、身業を以て門となして速に顯はれ、口に眞言を誦する時、自身本有の蓮華部の諸尊が口業を門として速疾に顯はれ、又意を以て滿月輪を觀する時、自身本有の金剛部の諸尊が意業を以て門となして速疾に顯はる」
(意訳:手で印を結んで仏の行いをする時、自分の中に本来備わっている「仏部」の仏たちが、身体の行いを入り口として速やかに現れる。口で真言を唱える時、自分の中に備わっている「蓮華部」の仏たちが、言葉の行いを入り口として速やかに現れる。また心で満月輪を観想する時、自分の中に備わっている「金剛部」の仏たちが、心の行いを入り口として速やかに現れる。)

これによれば、三密の修行を行うことによって、凡夫(普通の人間)の中に本来備わっている三部(仏部・蓮華部・金剛部)の仏たちが姿を現し、速やかに三密の悟り(菩提)を証明するといいます。

「三密加持すれば、速疾に顯はる」

という一句があります。
世間ではよく「お加持(加持祈祷)」という言葉が使われますが、加持とは「加被(かひ)任持(にんじ)」という意味です。弘法大師(空海)の『即身成仏義』には次のように解説されています。

「加持とは如來の大悲と、衆生の信心とを表はす、佛日の影・衆生の心水、に現するを加と曰ひ、行者の心水、能く佛日を感ずるを持と名く、行者若し能く此の理趣を觀念すれば、三密相應するが故に、現身に速疾に本有の三身を顯現し證す、故に速疾顯と名く」
(意訳:「加持」とは、仏の大きな慈悲(如来の大悲)と、人々の信じる心(衆生の信心)との関係を表している。仏の慈悲の太陽の光が、人々の心という水に映ることを『加(加える)』と言い、行者の心という水が、仏の太陽をしっかりと受け止めることを『持(保つ)』と言う。もし行者がこの道理をよく観念すれば、仏と行者の三密がぴったりと一致する(三密相応)ため、今のこの身体のままで速やかに本来備わっている仏の三つの身体(三身)を現し証明することができる。だから『速疾に顕れる』と呼ぶのである。)

つまり、仏がすべての生き物を守ろうとする大きな慈悲の願い(大悲願力)が、行者の心に映り込み、行者の信じる心が仏をしっかりと感じ取ることを「加持」と言います。仏と私たち衆生が心を通い合わせ(感応道交)、一つになった境地こそが「加持」なのです。
私たちが日夜の修行によって、身体・言葉・心の三業を仏と一致させてこの境地を体得できれば、この身がそのまま仏と一体になります。だからこそこれを「即身成仏」と呼び、法身・報身・応身という三つの仏の姿(三身)を現すことができるのです。
以上のような形や作法を伴う修行を「有相の三密」と呼びます。

無相(むそう)の三密

次に、形にとらわれない「無相の三密」についてです。これは『大日経義釈(だいにちきょうぎしゃく)』に次のように明かされています。

「一平等の身より普く一切の威儀を現す、是くの如きの威儀は密印に非るごとなし。一平等の語より普く一切の音聲を現ず、是くの如きの音聲は眞言に非るごとなし、一平等の心より普く一切の本尊を現す、是くの如きの本尊は三昧に非るごとなし。」
(意訳:絶対的に平等な仏の身体から、世の中のあらゆる姿や動き(威儀)が現れる。このような姿や動きは、すべてが仏の『密印』である。絶対的に平等な仏の言葉から、世の中のあらゆる音声が現れる。このような音声は、すべてが仏の『真言』である。絶対的に平等な仏の心から、あらゆる本尊が現れる。このような本尊は、すべてが仏の『三昧(悟りの境地)』である。)

つまり、「一平等の身」とは、この宇宙全体が仏の身体(一法界身)であるということです。この宇宙に存在するあらゆる現象や動きが、そのまま「密印」なのです。したがって、私たちの目に映るすべてのものは、ことごとく仏の密印となります。
また、宇宙に存在するあらゆる音声がみな「真言」であるというのなら、私たちの耳に入ってくるすべての音の世界は「一平等の語」、すなわち大日如来の説法であり、真言なのです。
さらに、宇宙が平等であるという心から現れる観察の対象(本尊)は、私たちの心と宇宙が静かに一致した境地であるため、それら一つひとつがすべて「三昧(さんまい)」であるという意味です。ここでの「三昧」とは、心を一つの対象に集中させ、願いを成就させる「定(じょう)」の働きを指します。

このように説くのは、特別に「一つの印」「一つの真言」「一つの本尊」と決められた具体的な作法(事の三密)ではなく、宇宙全体が形を持たず平等であるという大きな真理の上で論じられる三密だからです。そのため、これを「無相の三密」と呼びます。
密教の書物を読むと、「挙手動足皆成密印(手を挙げ足を動かすことすべてが密印となる)、開口発声悉是真言(口を開き声を出すことすべてが真言である)、念念作々自成定(心に思い行い作ることすべてが自然に定(三昧)となる)」と書かれているのを見かけますが、これらはすべて「無相の三密」を説明したものです。

『法華経』や『華厳経』などの大乗経典には、作法を伴う「有相の三密」は説かれていませんが、「無相の三密」は随所に説かれています。そのため、慈覚大師(円仁)は、『法華経』や『華厳経』などを「理密教(理屈の上での密教)」と判定しました。
今、この三密の考え方を大師の御心に沿って分けるならば、「無相の三密」は「理密(真理としての密教)」であり、「有相の三密」は「事密(具体的な実践としての密教)」となると思われます。