前の十二処では、心のはたらきの所依(よりどころ)と所縁(対象)を知ることができます。けれども、対象を縁じる側の心そのもの、能縁の心体は、まだ詳細には分けて説かれていません。そこで根と境と識を開いて、十八界とします。
十二処の次に、なぜ十八界を説くのか
十二処は、六根と六境です。目と色、耳と声のように、心が生まれる門口は分かります。ただ、その門口で「見ている心」「聞いている心」そのものは、意処のなかにまとめておさめられたままで、一つひとつには開かれていません。
十八界は、そこに識を独立させて数えます。六根・六境・六識で、十八です。
【具体例】
本堂の花を見るとき、十二処では「眼」と「花の色」が分かります。十八界では、それに「見ている眼識」を加えます。眼という器官、色という対象、見ている識。この三つが揃ってはじめて、「花を見ている」という一つの経験になります。器官と対象だけでは、まだ見ている心が説かれていない、ということです。
界とは「能持」である
サンスクリット語のダートゥ(Dhātu、音写すると駄都)を、「界」と翻訳します。界とは、能持(のうじ)という意味です。自らのはたらきを保持し、失わない、ということです。
六根と六境は、よく六識を発生(はっしょう)させます。根と境があるところに識が生まれ、その根と境において、識の受用(対象を受け取り、経験すること)が保持されます。界と呼ぶのは、この「持っている」という意味によります。
根と境が、識のはたらきを保つ
たとえば根は、過去あるいは現在において色を抱き保ち、識が境を受け取るよりどころ(所依)となります。色境のほうは、過去あるいは現在において、識の対象(所縁)となります。
【具体例】
昨日、夕日を見た眼も、いま窓の外の緑を見ている眼も、過去と現在のどちらであっても、色を受け取るための眼根として保たれています。この眼根が所依となって、識は境を受け取ります。昨日の夕日の色も、いまの緑も、過去あるいは現在の色境として、眼識の所縁になります。根がよりどころを保ち、境が対象を保つので、見ることがそのつど成り立ちます。未来の色を、ここには数えていません。保持されるのは、すでにあった過去と、いまある現在です。
識の側にも「持」がある
そして眼識の自相(その識だけが持つあり方)は、根を所依とし、色境を所縁とすることにあります。ですから眼識界という自界もまた、その自相を保持するという意味を含みます。この点でも、同じく「持」の意味が成り立ちます。
根と境だけが識を保つのではありません。識の界も、自分のあり方を保ちます。眼識は、眼を所依とし色を所縁とする、という自分の相を離れて別のものにはなりません。
【具体例】
鐘の音がして、同時に花が見えているとします。眼識は、眼を所依とし、花の色を所縁として「見る」という自相を保ちます。耳識は、耳を所依とし、鐘の音を所縁として「聞く」という自相を保ちます。眼識が音を聞き、耳識が色を見る、という入れ替わりは起きません。それぞれの識界が、自分の所依と所縁の組み合わせを保持しているからです。
これによって、六根・六境・六識を十八界とするのです。
十八界の内訳
十八は、次のとおりです。
- 六根:眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界
- 六境:色界・声界・香界・味界・触界・法界
- 六識:眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界
茶を一口飲む場面に当てはめると、こうなります。
- 眼界が見て、色界の湯気を、眼識界が受け取る
- 鼻界が働いて、香界の香りを、鼻識界が受け取る
- 舌界が働いて、味界の渋みを、舌識界が受け取る
- 身界が働いて、触界の湯のみの熱を、身識界が受け取る
- 意界を所依として、法界にある「これは祖父の湯のみだ」という内容を、意識界が受け取る
根が所依を保ち、境が所縁を保ち、識が「この根で、この境を縁じる」という自相を保つ。十八界は、その三つの保持を、感覚ごとに開いた分類です。
