十二処(じゅうにしょ)の分類:心が生まれる十二の門口

唯識

十二処(じゅうにしょ)の分類

サンスクリット語のアーヤタナ(Āyatana、音写すると阿野怛那)は、新しい翻訳では「処(しょ)」と訳されます。意味は「心と心所が生長する門」です。心とそのはたらきが、そこを入り口として生じ、伸びていく門口を指します。

六根を拠り所(所依)とし、六境を対象(所縁)として、心のはたらきを生じ伸ばすことができる一切のものを、十二に分類したものが十二処です。

処とは何か

根は、識を起こす側のよりどころです。境は、その識が向かう対象です。眼があれば色を見、耳があれば声を聞きます。よりどころと対象が揃ってはじめて、心のはたらきが生まれ、続いていきます。十二処は、その「生まれる門口」の側から、宇宙のあらゆるものを十二に分けた分類です。

【具体例】
湯のみを手に取るとき、目(眼根)が色かたち(色境)を縁じ、手が触感(触境)を縁じ、鼻が湯気の香り(香境)を縁じます。根が所依、境が所縁です。この組み合わせがあるので、「湯のみを持っている」という心が生まれ、次の動作へ伸びていきます。十二処は、このような心の出生点を数えたものです。

十二の内訳

十二は、六根と六境です。

見えるもの、聞こえるもの、香り、味、触れる感じは、それぞれ色・声・香・味・触の五処です。そこにおさまらない対象と、心そのものの側は、意処と法処に集められます。五根と五境については、五位百法の「色法」の五根六境もあわせてご覧ください。

【具体例】
鐘の音を聞く場面で分けると、耳が耳処、音が声処です。甘い茶を味わうなら、舌が舌処、甘さが味処です。ここまでは一対一でたどれます。問題は、そのあと心に残る「さっきの鐘は祭りだ」という判断や、音でも味でもない記憶です。それらは五つの感覚の処には入りません。意処と法処が、その残りを受け持ちます。

意処には八識がおさまる

六根・六境のうち、意処には、諸々の八識がおさめられます。意処は「考える意識」だけではありません。見ている識、聞いている識、そしてその根底の識まで、八つの識のすべてが意処に入ります。

【具体例】
花を見るとき、眼球の側のよりどころは眼処、花の色は色処です。しかし「見ている」その識は、眼処には入れません。見ている眼識も、意味づけている意識も、その背景ではたらく識も、識であるかぎり意処です。八識の全体は、私たちの心とは何か?「心王」(八識)で解説しています。

法処には四種類がおさまる

法処には、四種類の法がおさめられます。すなわち、五種の法処所摂色、五十一の心所法、二十四の不相応行法、六つの無為法です。こうして、宇宙の万有を摂め尽くします。

五つの感覚でとらえられる色・声・香・味・触以外で、心が対象にするものは、すべて法処です。中身は次の四つです。

1. 五種の法処所摂色

眼耳鼻舌身では直接とらえられず、意が法として縁じる色です。次の五種があります。

これらは仮の法です。ただし、八地以上の菩薩の定所生色だけは、実在するものとされます。

【具体例】
石をどこまでも細かく考えていくイメージが極略色、遠くの光をどこまでも細かく考えていくイメージが極迥色です。受戒のあと、姿としては見えないのに「戒を保っている」というはたらきが続くのが受所引色です。夢のなかで確かに見えた色や、ないものをあるように思い描く色は、遍計所起色です。深い禅定のなかで現れる色香は、定所生色です。どれも目の前の机のような五境ではなく、意が法として縁じる色なので、法処に入ります。

2. 五十一の心所法

心にともなうはたらき、五十一の心所も、それ自体は色・声・香・味・触ではありません。心が縁じる法として、法処におさめられます。感じる、想う、善い心、煩悩もここに入ります。

【具体例】
手紙を読んで腹が立つとき、紙の色は色処、紙の手触りは触処です。腹立ちそのものは、紙のどこにも見えません。怒りの心所は、意が対象にする法なので、法処です。

3. 二十四の不相応行法

物質にも心にも直接は当てはまらない、二十四の不相応行も法処です。名前、文章、生・住・異・滅のような、関係のうえで仮に立てられるものが含まれます。詳しくは物質でもなく心でもない不相應行法についてをご覧ください。

【具体例】
「約束」という語は、インクの色でも、声の振動だけでもありません。言葉として心が意味を取るとき、その名や文は不相応行であり、法処の対象です。

4. 六つの無為法

虚空・択滅・非択滅・不動・想受滅・真如の六無為も、法処に入ります。それぞれの意味は無為法(むいほう)の6つの解釈に書いています。

五根・五境・意処・法処の四つを合わせると、感覚されるものも、識も、心所も、概念も、真理も残らず入ります。十二処は、この意味で宇宙の万有を摂め尽くす分類です。全体の位置づけは、すべての事象を分類!五位百法とはとあわせるとさらに明確になります。

五蘊に立てなかった無為法を、なぜ入れるのか

そもそも無為法の場合には、生長という意味がありません。生じ、伸びていくはたらきを持たないので、前に説いた五蘊のなかには、独立した項目としては立てられませんでした。

けれども無為法にも、心が対象とする、という意味はあります。十二処は「心と心所が生長する門」であるとともに、心が縁じる対象の側も含みます。対象となるという意味があるので、十二処のなかには、無為法をも摂めるのです。

【具体例】
虚空のように、何ものにも妨げられないあり方は、お茶のように温まり、香りが立つものではありません。生長して次の心を生み出す原因にはならないので、五蘊では一本の蘊として立てません。それでも修行のなかで「妨げがない」と心がそれを対象にするとき、その真理は法処に入ります。生じないものも、心の対象であるかぎり、十二処の外には残らない、ということです。