四分では、識のはたらきを相分・見分・自証分・証自証分に分けました。次に、そのはたらきが正しい認識なのか、誤った認識なのかを、三つの量で見ます。現量(げんりょう)、比量(ひりょう)、非量(ひりょう)です。比量と非量は音が同じなので、漢字で区別します。
三量とは
諸々の識の作用は、三量として一様ではありません。三量とは、現量、比量、および非量のことです。
- 現量:正しい智慧によって、分別を交えず、諸法の自相(そのもの自身の相)を直接に覚る、誤りのない観察
- 比量:推理によって、すでに知っているものと照合する、誤りのない観察
- 非量:誤りや誤認のある現量、および誤りや誤認のある比量を、まとめていう名
正しい直接の観察が現量、正しい推理が比量です。非量は、そのどちらが誤ったときにも使います。第三の正しい知り方がある、という分けではありません。
【具体例】
夕方、庭の木の影が人の形に見えて、近づくと木だった、という取り違えは、直接に見た観察の誤りです。郵便受けが空なのを見て「もう配達は終わった」と決めたが、実はまだ来ていなかった、というのは推理の誤りです。どちらも非量です。いっぽう、影を影の形のまま受け取るのが現量の側、地面が濡れているのを見て、雨が降ったと、知っている関係どおりに照合できるのが比量の側です。照合が合っていれば比量、外れていれば非量です。
相分は三量に入らない
四分のうち、相分には能縁の性質がありません。ですから三量のなかには摂められません。量られるのは、対象を縁じる側です。
見分は、前に現れた境を縁じる作用です。資料ではこれを外境を縁じる作用といいます。ここでの外境は、見分が向き合っている対象のことです。見分は、この作用のゆえに、広く三量のなかに摂められます。
【具体例】
花の赤さという相そのものに、「この赤さは正しい」「この赤さは誤り」とは言いません。正しいか誤りかは、その赤さを見ている見分の側の問題です。見間違えたとき誤っているのは、見ているはたらきであって、現れている相が量の名前を持つわけではありません。
見分の量は、識によって違う
見分が三量に摂められるといっても、八つの識が同じ量を持つわけではありません。
- 第八識と前五識の見分:現量だけです。親しく境の自相に従って縁じ、推理を交えません。
- 第七識の見分:非量だけです。つねに第八識の見分を縁じますが、それをただ我であると妄執します。この妄執の点で、非量のみとなります。
前五識は、色・声・香・味・触を、名前や推理を挟まずに受け取ります。第八識の見分も、推理を交えず、境の自相に従って縁じるので現量です。第七識は、縁じる相手が第八識の見分であっても、それを「我」だと固執する。縁じていることと、正しく量っていることは、別です。
【具体例】
眼識が、花の色の自相を推理なしに受け取る。これが現量です。「椿だ」「好きだ」と意味を足す前の、色としての受け取りです。第七識は、その奥で続いている第八識の見分を縁じながら、そこに「これが私だ」と執します。縁じてはいる。しかし我と決めてしまう点で、その見分は非量です。
八識のならびは、心王(八識)の記事で全体を見られます。
第六識の見分は、三量に通じる
第六識の見分は、広く三量に通じます。詳しく分けると、次のとおりです。
- 五倶(ごく)の意識:前の五識と同時にはたらく意識です。これは三量に通じます。
- 定中の意識:瞑想の定のなかの意識です。これは現量だけです。
- 散位の独頭意識と、夢中の意識:散った状態で、五識を伴わず単独にはたらく意識と、夢のなかの意識です。これらは比量、あるいは非量です。
散位の意識のさらに細かい分けは、前六識を説く箇所で改めて見ます。ここでは、定のなかは現量のみ、散って単独のときと夢のなかは比量か非量である、というところまでを押さえておきます。
【具体例】
花を見ながら「これは椿に似ている」と照合する意識は、眼識と一緒にはたらく五倶の意識です。直接に受け取ることも、照合することも、照合を外すことも、この意識の見分には起こりえます。定のなかの意識の見分は、現量だけです。五識と一緒ではなく考えだけが続いているときや、夢のなかの意識は、比量か非量です。
見分は、同時にいくつも起こることがある
見分の三量は、同時に起こることがあります。また、一つの心に、いくつもの見分が起こることもあります。これを正説とします。
「いまは現量だけ」「いまは比量だけ」と、量を一つに限らなくてよい、ということです。見分そのものも、一つの心に一つだけとは限りません。
【具体例】
花の色を、分別を挟まずに受け取りながら、同時に「昨日見た花と同じだ」と照合する。直接の観察と推理が、見分のうえに重なることがあります。さらに、一つの心のうちに見分が一つだけとは限りません。別の相を縁じる見分が、同時に起こることもあります。
自証分と証自証分は、現量だけ
自証分と証自証分は、つねに親しく、所変の自体(自らが変じて現した、そのものの自体)を縁じます。ですから八つの識のすべてにわたって、現量だけです。
見分は、識によって現量にも比量にも非量にもなります。自証分と証自証分は、そうではありません。推理を交えず、自らに現れた自体を直接に縁じるので、どの識でも現量です。
【具体例】
第七識の見分は、第八識の見分を我と執する点で非量です。それでも、その見分を知っている自証分は、「たぶん見ている」と推理しているのではありません。見分という、自らに現れたはたらきを、直接に縁じています。見分が誤っていても、その見分を知っている自証分と、それをさらに知る証自証分は、現量のままです。
四分の役割は相分・見分・自証分・証自証分で分けました。三量は、そのうち見分が正しいか誤りか、そして自証分と証自証分はつねに現量であることを示す分けです。
