眞流律師の『教苑摘要』による「三宗一致」(四宗一致)の解説

眞流 教苑摘要

三宗一致(四宗一致)について眞流律師の『教苑摘要』を参考に紹介します。

原文と意訳を掲載し、眞流律師について簡単に説明をします。

眞流律師

眞流律師。正徳元年(1711年)、勢州津の生まれ。横川禅定院の智濤のもとで出家。享保15年(1730年)、智濤から認められ禅定院の第10代を継ぐ。享保20年(1735年)、比叡山戒壇院で大乗戒を受け、紀誉籠山での遮那行に励む。

延享4年(1747年)兼学律で定められた一紀十二年を満たさず、小乗戒との兼学を拒否し、自ら沙弥の身分を選び。更に兼学律は天台宗の本来の教えに反すると主張。宗派の原点回帰を目指す。

改革への道は険しくも。宝暦2年(1752年)公啓法親王が眞流の主張を認め、大乗戒一本への改革を実現。しかし、安永元年(1772年)、公遵法親王の下で兼学律が復活。これにより眞流に処分が下され、職の剥奪。比叡山三塔と天台宗寺院への立ち入り禁止となり、南禅寺の草案に帰りまもなく寂す。眞流は逆境の中でも「顕戒論闡幽記」など13部46巻の著作を残す。

6地位や名誉よりも信念を貫いた生き方。その姿勢は現代にも深い示唆を与えている。

最澄の三つの教え

伏して惟みるに大師(傅教)此の三宗を伝ふるや、其の意、遮情、表徳、遮表不二を用ふるにあり。

伝教大師最澄が三つの仏教の教えを伝えた真意には、深い意味が込められています。

それは「否定」(遮情)と「肯定」(表徳)、そしてそのどちらでもない「遮表不二」という三つの側面から真理をあきらかにされました。

三つの側面の意味

これ即ち寂、昭、寂照不二にして、全くこれ空假中の三なり。

この三、三にあらず一にあらず、前ならず後ならず、言語路絶え心行処滅す。然りと雖、名は徳用に隨ふが故に、遮の用を空と名づけ、表の用を仮と名づけ、不二の用を中と名づく。

この三つの側面は、静寂(寂)と光明(昭)、そしてそれらが融合した境地(寂照不二)として説明されます。仏教では伝統的にこれらを「空」「仮」「中」と呼んできました。

しかし、これらは単純に三つの別々のものとして理解すべきではありません。かといって、完全に一つのものというわけでもありません。

実は、これらは言葉では十分に表現できない、深遠な真理の異なる側面なのです。

「空」「仮」「中」の相互関係

故に 空を挙ぐれば一空一切空。仮を挙ぐれば一仮一切仮、中を挙ぐれば一中一切中、體一互融にして三の名づくべきなきを、強て妙空、妙仮、妙中といふ。夫れ此の三諦は、一切衆生天然の性徳にして、森羅万象の由て起る所なり。

「空」を理解すれば、すべてが空であることがわかり、「仮」を理解すれば、すべてが仮であることがわかり、「中」を理解すれば、すべてが中道であることがわかります。

私たちは便宜的にこれらを区別して「空」「仮」「中」と名付けていますが、実際にはそれぞれが相互に深く結びついています。

これらは本来本質は一つで融合しているため、区別できず三つの名をつけられないのですが、あえて「妙空」「妙仮」「妙中」という言葉で表現されるのです。

この三つの真理は、すべての生きとし生けるものに本来備わっている性質であり、この世界のあらゆる現象の根源となっているものなのです。

迷いと悟りの違い

衆生は因縁生に達せず、仮相に於て実を認め、恒に千差の法を見る知者は因縁仮相に迷はず、常に千差に即して三諦を見る。迷悟の二見同じからずと雖、其の法体を論ずれば則ち一々の差相、当処常一にして実相にあらざることなし。

普通の人々は、物事の本質的な「因縁果の道理」を理解できず、目に見える表面的な現象を実体のあるものと考えてしまいます。

一方、悟りを得た人(知者)は、そうした表面的な現象に惑わされることなく、あらゆる現象の中に三つの真理(空・仮・中)を見ることができます。

迷っている人と悟った人では、物事の見方は大きく異なります。しかし、それぞれの現象の本質を考えてみると、すべては同じ真理の異なる表れに過ぎないことがわかります。

「空」の教え

若し衆生ありて、因縁法に於て直に三諦を見ること能はずして、法に於て着想を生ぜば、即ち為に円空を用いて其の情計を破す。謂ゆる色空なるが故に乃至仏菩提も空なり。石に金性無く、乳に酪性無し。衆生の仏性虚空の如く、大涅槃も空、迦毗羅城も空。仏来れば即ち打ち、魔来れば即ち打つ、復何の著かあらむ。故に諸経の中に説て畢竟空、如々涅 槃等といふ。此は是れ遮情、また性体の寂用にして、禅家の手段多く之を用ふ。

もし誰かが、この因縁の法則の中に三つの真理を直接見ることができず、教えに執着してしまうならば、「すべては空である」という教え(円空)を用いて、その執着を打ち破ります。

これは、「形あるものはすべて空である」という考え方で、悟りさえも実体がないものとされます。

石には金の性質がないように、乳には既にバターの性質がないように、すべての存在は本質的に空であり、涅槃も空、お釈迦様の生まれた街(迦毗羅城)も空なのです。仏が来ても打ち、魔が来ても打つ – もはや何に執着することがあろうか。

これが「空」の教えであり、特に禅宗で多く用いられる方法です。

「仮」の教え

若し衆生ありて、因縁生の法に於て 直に三諦を見ること能はず、法に於て空見を生ずる時は、則ち為に円仮を用いて其の情計を破す。謂ゆる石に金性あ り、乳に酪性あり。一切衆生に悉く仏性あり。力士の額珠の如し。故に諸経の中に説て妙有、及び真善妙色、実際等といふ。此は是れ表徳、密家の手段多く之を用ふ。

もし人々が、因果関係の法則の中で直接的に三つの真理(空・仮・中)を理解できず、すべては「空(無)である」という偏った見方をしてしまう場合、その誤った考えを打ち破るために「円仮」という教えを用います。

それは次のような考え方です。

石の中には金の性質があり、乳の中にはバターになる性質があるように、すべての生きものの中には必ず仏になる性質(仏性)が備わっている。それは力士の額にある宝珠のようなものだ。

そのため、多くの経典では「妙有(不思議な存在)」「真実の善」「美しい色」といった表現で、この考えを説明しています。

これは「表徳」という教えで、特に密教の伝統でよく用いられる方法なのです。

「中道」への導き

若し衆生ありて、因縁生の法に於て直に三諦を見ること能はず、 並に空有を計する時は、則ち為に円中を用いて其の情計を破す。謂ゆる諸法絶待衆生の仏性は有にあらず無にあらず。 乳の中の酪性、石の中の金性、有にあらず無にあらず。故に諸経の中に説て中道第一義諦、微妙寂滅等といふ。これ則ち遮にあらず表にあらず、双べ照し双べ寂にして対待あることなきを、強て絶待と名づく。台家の手段多く之を用ふ。

もし人々が、因果関係の法則の中で三つの真理を直接理解できず、「存在する」「存在しない」という二つの極端な考えにとらわれてしまう場合、その偏った考えを打ち破るために「円中(円教の中道)」という教えを用います。

それは次のような考え方です。

あらゆる現象や人々の仏性(仏になる性質)は、単純に『ある』とも『ない』とも言えないものだ。例えば、乳の中のバターになる性質や、石の中の金の性質のように、『ある』とも『ない』とも一概には言えない。

そのため、経典では「中道第一義諦(最高の真理)」「微妙寂滅(深遠な悟りの境地)」といった言葉でこれを表現しています。これは否定でも肯定でもなく、両方の側面を同時に照らし出しながら、どちらにも執着しない境地を指します。相対的な区別を超えているため「絶待(絶対的なもの)」と呼ばれ、特に天台宗で重視される教えです。

天台教学における禅と密教

然に禅、密の二宗、台教の為に判收せらる、時は、則ち並べ伝ふと雖、而も正意は、唯、台教にあり。故に達磨の直指人心見性成仏の如き、何をか直指といふ、吾人現前の心を指すに則ちこれ真心なり。何をか見性成仏といふ、亦唯、 妄に即して真を見、本性の仏を成ずるのみ、性は本具の三千を謂ふ、芥爾の一念に三千具足すと達し、其の本具を復するを見性成仏と為す云々又、密宗の如き、胎金の両部は、理智の二門なり。理智不二を蘇悉地と為す。

禅宗と密教の二つの教えは、天台の教えの中に包含され理解されます。

これらの教えは並行して伝えられてきましたが、その本質的な意味は天台教学の中に見出すことができます。

例えば、達磨大師の「直指人心、見性成仏(人の心を直接指し示し、自性を見て仏となる)」という教えを考えてみましょう。

ここでいう「直接指し示す」とは、まさに私たちの目の前にある心、つまり真心を指しています。また「見性成仏」とは、迷いの中に真理を見出し、本来の仏性を実現することを意味します。これは「一瞬の思いの中に三千の世界が具わっている」という天台の教えと本質的に同じものなのです。

同様に、密教における「胎蔵界」と「金剛界」の二つの世界観も、「理(真理)」と「智(智慧)」という二つの側面として理解することができます。そしてこの二つが一つとなった状態を「蘇悉地(完全な成就)」と呼びます。

密教の世界観

大日如来が因時に三密の行を修し、一念の心に三千具足すと観じ果成ずるに至つて事理の三千究竟じて顕はる。

密教において、大日如来は修行の段階で三密(身・口・意)の行を実践し、一つの心の中に三千の世界が具わっていることを観想したとされています。そして悟りを得た時、現象界と真理の世界が完全に顕現したと言われています。

曼荼羅の象徴する意味

能顕を智と名づけ、所顕を理と名づく。理は即ち胎曼陀羅、智は即ち金曼陀羅、不二は即ち蘇悉地曼陀羅なり。遮情は智を以て情を破す るが故に智曼陀羅、表徳は本具の徳を表するが故に理曼陀羅、理智冥合は即ち不二曼陀羅なり。

この教えの中で、顕現させる働きを「智」、顕現される真理を「理」と呼びます。

「理」は胎蔵曼荼羅として、「智」は金剛界曼荼羅として表現され、両者が一つとなった状態が蘇悉地曼荼羅とされます。

否定的な面は智慧によって迷いを打ち破るため「智曼荼羅」、肯定的な面は本来の徳を表すため「理曼荼羅」、そしてその二つが融合した状態が「不二曼荼羅」なのです。

密教における実践と理解

此の理を顕はさむと欲し、直に事密を用いて本具の徳を表ずるなり。彼の宗の不得意の者は、或は眞如性起は六大本有に若かずと謂ひ、 遂に庶情を以て劣と為し、表徳を以て勝と為し、甚しきは則ち常見に堕す。
得意の者は謂ふ、此の経の本地法身は法華の最深秘処なりと又、阿阿(引)暗惡の四字を開、示、悟、入に配するは、其の極致を得て深く蓮華三昧経の意に合へり。

この深い真理を示すために、密教では具体的な儀式や実践(事密)を通じて、私たちが本来持っている徳を顕現させようとします。

ただし、この教えを十分に理解できない人々は、「真如から生じる現象よりも、六大(地・水・火・風・空・識)の方が根源的だ」などと考え、表面的な現象を重視しすぎてしまい、霊魂などを信ずる常見外道の考えに陥りやすいです。

一方、この教えを深く理解した人々は、この経典が説く本質的な教えは法華経の最も深い真理と一致していると説きます。また、「阿阿(引)暗悪」という四つの文字が、法華経の「開・示・悟・入」という四つの段階と対応していることを指摘し、これが蓮華三昧経の真意と深く知らされます。

高僧たちの解釈

故に慈覚、智證、安然の如きに至っては、密を判じて円の有門に属し、禅を判じて円の空門と為す、これ台教を以て判じて之を收むるなり云々。然るに禅密の二宗或は教外に別伝し、或は顕乗の外に出で、抗然として角立す吾大師が悉く取て之を伝へ、三宗を融会して之を三観に帰するに暨んで、則ち教の外に禅なく顕の外に密なく、総べて円宗の正印と成るなり云々

そのため、仏教の歴史において、慈覚大師、智證大師、安然といった高僧たちは、密教と禅宗を天台の教えの中に位置づけるという革新的な解釈を示しました。彼らは密教を「有(存在)の教え」として、禅を「空(無)の教え」として理解し、これらをすべて天台教学の枠組みの中で説明しようとしたのです。

しかし、もともと禅宗と密教は、既存の教えの外に独自の教えを立て、時には対立的な立場を取ることもありました。

そうした状況の中で、最澄(伝教大師)はこれらの教えをすべて取り入れ、天台の三観(空・仮・中)という考え方の中に統合しようとしました。

天台円教の確立

その結果として、「教えの外に禅なく、顕教の外に密教なし」という新しい理解が生まれました。つまり、一見異なる教えに見える禅や密教も、実は天台円教の中に完全に包含されるという教えが確立されたのです。

この壮大な思想体系から、1200年以上の時を経た今日でも、私たちは学ぶべきことがあります。

異なる考え方を対立させるのではなく、より高次の視点から統合的に理解しようとする最澄の智慧は、現代社会においても重要な意味を持っているのです。

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