天台宗の開祖である天台大師(智顗)が著した『摩訶止観』という重要な書物があります。
これは法華経の教えを実際に実践し、悟りを得るための修行方法を詳しく説明したものです。
天台大師の和讃には、次のような言葉があります。
「法華を人に知らせむと、名字を變へて說けるなり」
(法華経の教えを人々に分かりやすく伝えるために、「摩訶止観」という別の名前を使って説いたのである)
つまり、『摩訶止観』は、法華経を別の形で表現したものに過ぎないということです。
四種三昧における阿弥陀仏
『摩訶止観』では「四種三昧」という4つの修行法が示されています。驚くべきことに、これらはすべて阿弥陀如来に関係しているのです。
特に注目すべきは「常行三昧」という修行法です。これは
- 一歩一歩歩きながら
- 一声一声唱えながら
- 一念一念想いながら
- ただひたすらに阿弥陀仏を心に思う
という修行です。この修行は、専門的に阿弥陀如来に帰依し、その慈悲の誓願を仰ぐためのものなのです。
天台大師の浄土思想
さらに、天台大師は阿弥陀仏について書かれている『観無量寿経』についての解説書も書いています。
この中で、法華経の教えに基づいて、極楽浄土に往生することの素晴らしさを明らかにしています。
これらの事実から、法華経と阿弥陀如来(念仏)は最も親密な関係にあることが分かります。
天台宗において、法華経と念仏は決して別々のものではなく、本質的に同じ教えの異なる表現なのです。
法華経の核心「十界皆成仏」
法華経は何を説いているのでしょうか。それは「十界皆成仏」という一言に集約されます。
これは、地獄界から仏界までの十の世界において、どのような境遇にある者でも、誰もが仏になることができるという教えです。
阿弥陀如来の慈悲との関係
この「十界皆成仏」という根本的な教えがあるからこそ、阿弥陀如来の慈悲の誓願が完全に実現されます。
つまり「どのような罪深い悪人であっても、救わずにはおかない」という阿弥陀如来の誓いが、しっかりとした理論的土台を持つことになるのです。
天台大師の臨終に見る法華経と念仏
天台大師は、自らの優れた智慧によって仏の教えを深く理解されました。法華経に基づく瞑想(法華三昧)の前段階として、陀羅尼という高度な精神統一の状態に達していました。
天台大師が臨終を迎えたとき、弟子たちに次の二つの経典を読ませました。
それが
- 法華経
- 『観無量寿経』
の2つです。
法華経を聞いての感想
まず法華経を聞き終えると、天台大師はこう語りました。
法門の父母慧解由つて生す、本迹廣大にして微妙測り難し、四十餘年これを蘊めり、誰か與すべぎことを知らず、唯、獨、自ら明了にして、餘人の見ざる所なり。云
仏の教えは父母のようであり、私の智慧はそこから生まれた。その教えは広大で、奥深さは測り知れない。私は四十数年間、この教えを深く心に抱いてきたが、この境地を誰と分かち合えばよいのか。ただ私一人がはっきりと理解している境地なのだ。
『観無量寿経』を聞いての感想
続いて『観無量寿経』を聞き終えると、次のような詩を作りました。
四十八願を以て淨土を莊厳し給ふ。華池,寶樹,往を易ふして而も人なし。火車の相現すとも。能く改悔する者は、 尙,往生することを得。云
意訳:阿弥陀如来は四十八の誓願によって極楽浄土を美しく飾られた。蓮の池や宝の樹木があるというのに、そこへ往生しようとする者は少ない。たとえ地獄の火車が目の前に現れるような者であっても、よく懺悔する者は往生することができるのだ。
最期の言葉
最後に、高弟の智朗からの問いに対して、天台大師は答えました。
信自ずから已まり、彌陀•觀音親しく來って接引す
(私はこれから、阿弥陀仏と観音菩薩たちの来迎を受けて、心安らかに極楽浄土へ往生するのだ。)出典:『国清百録』(六十六 王答遺旨文)
このように、天台大師は臨終の場面においても、法華経の教えにしっかりと立脚しながら、同時に阿弥陀如来に帰依されたのです。
これは法華経と念仏が本質的に一体であることを示す重要な証拠といえるでしょう。
「朝題目に夕念仏」の本当の意味
古くから天台宗の標語として「朝題目に夕念仏」という言葉があります。
これはおそらく日本で作られた言葉でしょう。
その由来は、慈覚大師(円仁)が、朝のお勤め(朝課)に法華経に基づく儀式(法華懺法)を定め、決まった時間のお勤め(例時作法)として念仏を夕方のお勤め(晩課)とされたことに起因するのではないかと思われます。
感覚的にも、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることには、どこか朝の清々しい気分が満ちていますし、念仏(南無阿弥陀仏)には、どことなく夕暮れの静かな情緒が感じられます。
しかし、宗派の教義の観点から理性的に判断すれば、これは朝と夕で修行を分けるべきだということではありません。つまるところ、「朝から晩まで一日中、法華経の教えに立脚して念仏を唱える」ということなのです。
比叡山の恵心僧都(源信)が、『往生要集』(念仏について説いた書)を著した後に、『一乗要決』(法華経の教えを説いた書)を著されたのも、結局は法華経と念仏の融合に基づかれたものだと思われます。
法華経を土台とした念仏の実践
すでに述べたように、法華経を中心とした念仏であるからには、その深い意味を理解していても、していなくても、私たちが称える対象である阿弥陀仏は「一境三諦」(世界のありのままの真実の姿)そのものであり、私たちが称える念仏は「一心三観」(その真実を観るための心の働き)なのです。
念仏については、まだ述べなければならないこともありますが、機会があれば、霊空和尚の『即心念仏安心決定談義』や、特に恵澄和尚の『後世の路の枝折』のような書物について、触れたいと思います。

