仕事や家事、勉強などに一生懸命取り組んでいても、思うように進まず、疲れを感じることがあります。もっと頑張らなければと無理を重ねた結果、かえって気持ちが落ち着かなくなり、続けることさえ嫌になってしまうこともあるでしょう。
お釈迦さまの弟子にも、熱心に修行を続けながら、思うような成果が得られず、修行をやめようと考えた人がいました。
その弟子に、お釈迦さまは琴の弦をたとえにして、精進のあり方を教えられました。

琴を習っていた弟子
この話は、パーリ語の『増支部経典』に収められた『ソーナ経』に説かれています。
あるとき、お釈迦さまは王舎城の霊鷲山に滞在されていました。弟子のソーナ(コーリヴィサ)は、王舎城近くのシーター林で、一人修行に励んでいました。
ソーナは熱心に修行を続けていましたが、なかなか煩悩から離れることができません。そんなある日、一人で修行していたソーナの心に、ある考えが浮かびました。
「私はこれほど修行に励んでいるのに、いまだに煩悩から離れることができない。実家には財産があるのだから、いっそ修行をやめて家に戻り、その財産を使って楽しみながら、功徳を積んだほうがよいのではないか」
その思いを知ったお釈迦さまは、霊鷲山からシーター林へ赴き、ソーナの前に姿を現されました。
お釈迦さまが、先ほど考えていたことを尋ねられると、ソーナはそのとおりだと答えました。
そこで、お釈迦さまは、ソーナが出家する前、琴を弾くのが得意だったかを尋ねられました。
ソーナが「はい」と答えると、お釈迦さまは琴の弦の張り方について、さらに質問されました。
「弦を強く張りすぎたとき、琴はよく調い、弾くことができただろうか」
「いいえ、できませんでした」
「では、弦をゆるめすぎたときはどうだったか」
「そのときも、うまく弾けませんでした」
「それでは、弦を強く張りすぎず、ゆるめすぎず、ちょうどよい具合に調えたときはどうだったか」
「そのときは、よく調った音が出て、弾くことができました」
ここでいう琴とは、古代インドで使われていた「ヴィーナー」という弦楽器のことです。以上の問答は、経典の内容を分かりやすくした意訳です。
お釈迦さまは、この琴の弦をたとえにして、精進について教えられました。
次は、その教えを分かりやすく表した意訳です。
精進が強すぎると、心は落ち着きを失い、浮ついてしまう。反対に、精進が弱すぎると、怠け心が生じる。
だから、精進の強さを適切に調え、五つの働きの釣り合いを取りながら、修行の対象に心を向けなさい。
ソーナは、お釈迦さまの教えを受け入れました。
お釈迦さまが霊鷲山へ戻られた後も、ソーナは精進の強さと心の働きを調えながら修行を続けました。そして、ついには煩悩から解放され、阿羅漢の悟りを開いたと『ソーナ経』には説かれています。

精進は強すぎても、弱すぎてもよくない
お釈迦さまが琴の弦にたとえて教えられたのは、修行における精進のあり方です。
一生懸命に励むことは大切ですが、精進が強すぎると、かえって心が落ち着かなくなります。仏教では、このように心が浮つき、静まらない状態を「掉挙(じょうこ)」といいます。
反対に、精進が弱すぎると、怠け心が生じます。これは「懈怠(けだい)」と呼ばれ、修行に励むことを妨げるものです。
お釈迦さまは、精進の強さを適切に調えるとともに、心の五つの働きの釣り合いを取るように教えられました。この五つを「五根(ごこん)」といいます。
- 信(しん):教えに対する信頼
- 精進(しょうじん):善いことに努め、修行に励む力
- 念(ねん):対象を忘れず、心に保つ働き
- 定(じょう):心を一つの対象に集中させる働き
- 慧(え):ものごとを正しく見極める智慧
修行では、ただ精進を強めればよいというわけではありません。信・精進・念・定・慧という五つの働きを調えながら、修行の対象に心を向けることが説かれています。
この琴のたとえは、中道の教えと関連づけて紹介されることがあります。
ただし、お釈迦さまが初めて説法されたときの中道は、感覚的な快楽にふけることと、体を苦しめる極端な苦行の両方を離れる道を意味します。
琴の弦のたとえは、その初転法輪の説法とは別の場面で語られたものです。ここでは、修行における精進を強すぎず弱すぎないように調え、心の働きを釣り合わせることが教えられています。
やめてしまいたくなるとき
努力を続けても思うような成果が出なければ、これ以上頑張っても仕方がないと感じることがあります。
ソーナも、熱心に修行しているのに煩悩から離れられず、出家をやめて家に帰ろうと考えました。
そのソーナに、お釈迦さまは、もっと厳しく修行するようにとは言われませんでした。かといって、修行をやめるように勧められたわけでもありません。
琴の弦をたとえにして、精進の強さを調えるように教えられたのです。

私たちの日常生活でも、物事がうまく進まないとき、ただ頑張り続けるか、すべてをやめてしまうかの二つしかないように感じることがあります。
しかし、努力の仕方や力の入れ方を見直すという道もあります。
もちろん、疲れたときに体を休めることと、仏教で説かれる精進の調整は同じ意味ではありません。『ソーナ経』が教えているのは、精進の強さと心の働きを調えながら、修行に励むことです。
精進の強さを調えながら励む
ソーナは、思うように修行が進まず、出家をやめようと考えていました。しかし、お釈迦さまから琴の弦のたとえを聞き、精進の強さを調えて修行を続け、ついには悟りを開きました。
琴の弦が張りすぎてもゆるめすぎてもよい音を出せないように、精進にも適切な強さがあります。

琴の弦のたとえには、ただ努力を重ねるのではなく、精進の強さを適切に調えながら励むという、お釈迦さまの教えが示されています。
出典について
琴の弦のたとえは、パーリ語の『増支部経典』に収められた『ソーナ経』(AN 6.55)に説かれています。
漢訳の『中阿含経』にも、同じ説話に対応する『沙門二十億経』があります。
また、ソーナが足を傷つけるほど修行に励んだという話は、律蔵の『大品(マハーヴァッガ)』にも伝えられています。本記事では、主に『ソーナ経』の内容に沿って紹介しました。
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