仏教の本を読んだり、法話を聞いたりして、心に残った言葉はないでしょうか。
苦しいときに、お釈迦さまの教えに励まされたり、これまで気づかなかったことを教えられたりすることがあります。もっと仏法を知りたいと思い、繰り返し本を読み、法話に耳を傾ける人もあるでしょう。
仏法を学び、その意味を理解することは大切です。しかし、学んでいるうちに、教えをよく知っていることや、人に説明できることに満足してしまう場合もあります。
何のために仏法を学ぶのか。その目的を忘れないことが大切ではないでしょうか。
お釈迦さまは、仏法を「筏(いかだ)」にたとえて、その目的を教えられています。

こちら岸から、向こう岸へ
お釈迦さまの教えを伝える『中部経典』の「蛇喩経(じゃゆきょう)」には、次のようなたとえが説かれています。
ある人が旅をしていると、目の前に大きな川が現れました。
こちら岸は危険が多く、向こう岸は安全で、恐れるもののない場所です。
何とか向こう岸へ渡りたいと思いましたが、舟もなければ橋もありません。
そこで、その人は考えました。
「草や木の枝、葉などを集めて筏を作り、それに頼って向こう岸へ渡ろう」
さっそく材料を集めて筏を組み、手足を使って懸命に川を渡りました。
こうして、無事に向こう岸へたどり着くことができたのです。

さて、その人は、自分を向こう岸まで運んでくれた筏を見て、こう考えます。
「この筏のおかげで、無事に川を渡ることができた。本当に役に立ってくれたのだから、頭に載せるか、肩に担いで、この先も持っていこう」
お釈迦さまは、弟子たちに尋ねられました。
「この人は、筏を正しく扱っているだろうか」
弟子たちは、そうではないと答えました。
筏は、危険なこちら岸から、安全な向こう岸へ渡るために作ったものです。無事に渡り終えたなら、筏を陸に引き上げるか、水に残して、自分は先へ進めばよいのです。
役に立ったからといって、いつまでも重い筏を担いで歩く必要はありません。
お釈迦さまは、このたとえを通して、仏法もまた、向こう岸へ渡るための筏のようなものだと教えられました。
手放すのは、着いてから
筏のたとえを説かれたあと、お釈迦さまは、さらに大切なことを教えられました。
『蛇喩経』には、次の趣旨の言葉があります。
「法でさえ捨てるべきである。まして、法でないものはなおさらである」
この言葉だけを聞くと、仏法を学ぶ必要はないという意味にも受け取れるかもしれません。しかし、決してそうではありません。
川を渡っている最中に筏を手放してしまえば、向こう岸へたどり着くことはできません。無事に渡り終えるためには、筏が必要です。
仏法も同じです。お釈迦さまの教えを正しく理解し、実践することによって、苦しみから離れる道を進むことができます。
だからこそ、仏法を聞き、学ぶことには大切な意味があるのです。
一方で、向こう岸へ渡り終えたあとも、筏を手放さずに担いで歩く必要はありません。
筏は川を渡るためのものであって、筏そのものを持ち続けることが目的ではないからです。
仏法についても、教えを正しく用いることと、その教えに執着することは区別しなければなりません。
お釈迦さまは『蛇喩経』の中で、筏のたとえに先立ち、水蛇のたとえも説かれています。
蛇を捕まえるとき、尾をつかめば、振り向いた蛇に噛まれてしまいます。しかし、正しい方法で捕まえれば、そのような危険を避けられます。
仏法も、意味を正しく理解せず、自分の考えを正当化したり、他人との議論に勝ったりするために学べば、かえって害になることがあります。
大切なのは、教えを正しく理解し、その目的にかなうように用いることです。
筏のたとえと水蛇のたとえは、教えを正しく学ぶことの大切さと、学んだ教えに執着しないことの両方を私たちに教えているのです。
言葉を、目的地にしていないか
仏法を学んでいると、初めは分からなかった言葉の意味が分かるようになり、少しずつ知識も増えていきます。
法話で心に残ったことをノートに書き留めたり、経典の一節を覚えたりすることもあるでしょう。
そうして教えへの理解を深めていくことは、大切なことです。
しかし、いつの間にか、仏法をよく知っていることや、人に説明できることに満足してしまう場合もあります。

難しい言葉をいくつ覚えたか、どれほど詳しく説明できるか。そればかりに心を奪われてしまえば、何のために仏法を学んでいるのかという、肝心なことを見失いかねません。
筏がどれほど立派にできていても、それを使って川を渡らなければ、本来の役割を果たしたことにはなりません。
仏法も同じではないでしょうか。
教えを聞き、意味を理解することは大切です。しかし、知識を身につけることだけが、仏法を学ぶ目的ではありません。
お釈迦さまが説かれた教えによって、自分自身の苦しみを明らかにし、そこから離れる道を求めることが大切なのです。
たとえば、仏教では、怒りや欲、執着が苦しみの原因になると教えられています。
そのことを知識として理解していても、自分が怒りにとらわれたとき、その教えを思い起こすことは容易ではありません。
学んだ教えに照らして自分自身を振り返り、苦しみから離れる道を歩んでいくことが求められます。

筏は、持っていることに満足するためのものではなく、向こう岸へ渡るためのものです。
仏法を学ぶときにも、どれだけ知っているかだけでなく、何のために学んでいるのかを、忘れずにいたいものです。
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