心が現れる二つの変わり方:因能変と果能変

唯識

心が現れる二つの変わり方:因能変と果能変

四分では、識のはたらきを相分・見分・自証分・証自証分に分けました。三量では、そのはたらきが正しい認識か、誤った認識かを見ました。ここからは、八つの識が何を根元として現れ、その現れがどこで変わるのかを見ます。

第八識を、初能変という

八つの識には、能変(のうへん)というはたらきがあります。その根元にあるのが、第八の阿頼耶識(あらやしき)です。根元であるところから、これを初能変(しょのうへん)と呼びます。

八識の能変は、一つにまとまりません。因能変(いんのうへん)と果能変(かのうへん)の二つがあります。変という字は同じでも、因の側と果の側では、指している事がらが違います。

因能変は、種子が現行を生む力

因能変の「変」は、転変(てんぺん)です。ある状態から、別の状態へ転ずることをいいます。「因」は種子(しゅうじ)を指します。

種子であるあいだは、まだその法としての作用が出ていません。心の法の種子には、対象を縁じて知るはたらき、すなわち縁慮(えんりょ)がありません。色の法の種子には、場所をふさぐはたらき、すなわち質碍(しつげ)がありません。これが現行(げんぎょう)すると、縁慮や質碍の作用があらわれます。因のあり方と果のあり方が、かけ離れて転じます。この転変が、因能変です。

因能変とは、種子のことです。種子が因となって、一切の現行を親しく生じさせる力を、因転変といいます。

土の中にある種は、まだ葉を広げていません。葉が場所をふさぐのは、芽吹いてからです。色の種子も、質碍の作用は現行してはじめてあらわれます。心の種子では、対象を縁じて知る縁慮が、現行とともにあらわれます。

現行を因能変と見る説もある

現行そのものを因能変とする説も、伝えられています。先に置いた定義は、種子を因能変とする見方です。現行を因とする見方は、別の説として残されています。

果能変は、見分と相分が現れること

果能変の「変」は、転変とは別の変現(へんげん)です。作用が現れてくることをいいます。八つの識の現行を、果能変といいます。

その中身は、八識の自体分から、見分と相分の作用が変現されることです。四分で分けた自体のはたらきから、対象として現れる相分と、それを縁じる見分とが出てきます。この変現があるので、現行の八識を果能変と呼びます。

花の赤さが相分として現れ、それを縁じる見分がはたらくとき、その二つの作用は、八識の自体分から変現したものです。四分は、一つの識のうちにある四つの分を数えた分けです。果能変は、そのうち見分と相分が自体分から現れる、という変わり方の名です。

第八の阿頼耶識が初能変と呼ばれるのは、種子から現行へ転ずる因能変と、自体分から見分・相分が現れる果能変の、根元にあるからです。