「運が良かった」「偶然が重なった」という経験をしたことは、皆さんあると思います。
この私たちが「偶然」と呼んでいるものの「正体」について、深く考えてみましょう。
スピノザの指摘
17世紀の哲学者スピノザは、「偶然とは認識の欠陥に過ぎない」という驚くべき指摘をしています。
ある物事が偶然と呼ばれるのは、ただ我々の認識の欠如という観点からのみである
引用:スピノザ主著『エチカ』(Ethica, 1677)
“Res aliqua nulla alia de causa contingens dicitur, nisi respectu defectus nostrae cognitionis.”
どういうことでしょうか。
偶然の再会
私は京都の大学に通っていたころ、正月の帰りに京都駅からのった新幹線の中で熊本の予備校時代の友人とばったり出会いました。
「こんな場所で会うなんて、なんて偶然なんだ!」と驚きましたが、この出会いも実は、様々な必然的な要因が重なって生まれた出来事でした。
偶然の背後にある必然性
私は帰省のために新幹線にのり、彼は東京の大学から熊本へ帰省するためでした。
私たちはそれぞれの帰省という必然的な理由で、同じ時期に、同じ新幹線に乗っていたのです。
私たちは同じような大学生で毎年正月に帰省していました。
その時は、新大阪駅から鹿児島まで新幹線が走るようになった時期で、熊本に帰る人は新大阪から新幹線に乗客したい人がたくさんいました。
また、熊本弁で会話をしていた彼の声が、雑踏の中でも私の耳に届いたのは、予備校で仲が良く、よく話していいたからです。
さらには予備校卒業後もそこまで時間が立っておらず、彼を忘れていなかったから。
もしライバルで、むかつく友人だったら、記憶から抹消していたかもしれません。
このように分析していくと、一見「奇跡的な偶然」と思える再会も、実は様々な社会的、地理的、時間的な必然性が重なり合って起きた出来事だったことがわかります。
「驚くべき偶然」というのは、その出来事に至るまでの複雑な原因を把握できていないだけなのです。
原因がないわけではありません。
私たちは、物理的にも、能力的にも、すべての原因を把握できません。
生きている中で、原因のその一部分しか認識できていないために「偶然」と感じるのですが、実際にはすべての出来事が必然的な関係性の中で起こっているのです。
まとめ:偶然について正しい理解
「偶然」とは、「原因もなく結果が起きた」という意味で、使われます。
しかし実際には、人間にはすべての原因がわからないだけで、さまざまな原因が重なって結果が生じているのです。
そして仏教でもどんな結果にも必ず原因があると教え、原因無しに起きる結果は、一つもないのです。
そこで、どんな運命も、必ず原因があって、起きているのです。