伝教大師(最澄)が日本に帰国された翌年、延暦25年(806年)の1月26日に、天台宗の僧侶も国家公認の僧侶(年度者)となる勅許が下りました。
しかし、僧侶が守るべき根本である戒律制度が改められない限り、天台宗の僧侶であっても、依然として奈良の南都にある戒壇に上って、南都系の戒律である四分律を受けなければなりませんでした。
そのため、大乗仏教の究極である円頓戒は、国家公認の僧侶には授けられない制度であり、宗祖である伝教大師の願いはまだ実現していませんでした。
小乗戒からの決別
弘仁9年(818年)の春の終わり頃、伝教大師は弟子たちに、小乗戒を完全に放棄したことを告げました。『釈註』の74ページには、その時の様子が記されています。
伝教大師は弟子たちに言いました。
我れ法華圓宗の元由を尋ぬるに、初は靈鷲、次は大蘇、後は天台、並に皆山に於て說聽し修學し解悟したまひき。此の故に我宗の學生、初修の頃は、 國の為め家の為めに山修山學して有情を利益し佛法を興隆すべし。旣にして世間の譏嫌、巖窟に止息しなば、佛種の爾芽、山林より滋茂ならむ。今より以後、聲間の利益を受けず、永く小乘の威儀に乖け。卽ち自ら誓願して二百五十戒を棄捨し已れり。
引用:『叡山大師伝』
意訳:私が天台宗の根本的な教えの由来をたどると、その源はインドの霊鷲山に始まり、中国の大蘇山、そして天台山へと受け継がれてきました。これらの地で、先人たちは教えを説き、聞き、学び、修行し、悟りを開いてきました。
ですから、我が天台宗の学生は、最初の修行の頃は、国家のため、家のため、そして全ての人々(有情)を利益し、仏法を興隆するために、山で修行し学ぶべきです。その後、世間の煩わしさから離れ、静かな場所に身を置けば、仏の種は芽を出し、山林からますます成長していくでしょう。
今より以後、小乗的な戒律による名誉や利益を求めず、永遠に小乗の形式的な威儀にとらわれることをやめなさい。私は今、自ら誓って、二百五十戒(小乗戒)を放棄しました。
三式制定と円頓戒の確立
さらに、伝教大師は続けて言いました。
南岳、天台の兩大師は、昔、靈山に於て親り法華經を聞き、兼て菩薩の三聚戒を受けたり。所以に師々相授く。智者は灌頂に授け、灌頂は智威に授け、智威は慧威に授け、慧威は玄朗に授け、玄朗は湛然に授け、 湛然は道邃に授け、道邃は最澄次に義眞授けたり。我れ常に正敎を披閱するに、既に菩薩僧と菩薩の威儀とあり。また一向大と一向小とあり。今我が宗の學生は、大乘の戒定慧を開きて、永く小乘下劣の行を離れしめむ。
引用:「叡山大師伝」
意訳:南岳慧思大師と天台智顗大師は、昔、霊鷲山において、釈迦牟尼仏から法華経を直接聞き、菩薩の三聚戒を受けられました。その教えは師から弟子へと受け継がれ、智顗大師は灌頂大師に、灌頂大師は智威大師に、智威大師は慧威大師に、慧威大師は玄朗大師に、玄朗大師は湛然大師に、湛然大師は道邃大師に、道邃大師は最澄(伝教大師)と義真に授けられました。
私が常に仏教の正しい教え(正教)を詳しく調べると、そこには既に菩薩僧という存在と、菩薩としての威儀(立ち振る舞い)が示されています。また、大乗と小乗という区別もあります。今、我が天台宗の学生は、大乗の戒・定・慧(戒律を守り、心を静め、智慧を磨くという仏教の基本的な修行)を開き、永遠に小乗の劣った修行から離れるべきです。
これらの記述を読むと、伝教大師が自ら断固として小乗戒を捨てられた様子が、まるで目の前に浮かび上がってくるようです。
そして、その年(弘仁9年)の5月13日に六条式、8月17日に八条式を朝廷に提出し、さらに弘仁10年(819年)3月15日に四条式を提出されました。
この三つの式の最後の四条式においては、円頓大戒の受戒と修行は、小乗戒や声聞乗の戒とは根本的に流れが異なり、全く菩薩戒として独立すべきものであるということが明確にされました。
総じて、この三つの式は、天台宗の最も重要な教えである法華経が、実践の上に現れた円頓戒を基礎とした人材育成の体系であると言うことができるでしょう。
さて、この三つの儀式を制定した理由について、大師(最澄)自身が次のように説明しています。
問:なぜこの学生式を制定するのですか?
答:法華経、仁王経、金光明経などの大乗経典を伝えるためです。
問:なぜ法華経などを伝えるのですか?
答:国家を守り、万民を利益し、一切の悪を断ち、一切の善を行うためです。
問:国家を守り万民を利益するとは、現世の報いですか、それとも来世の報いですか?
答:現世の報いもあり、来世の報いもあります。
問:現世の報いについての明確な根拠はどの経典にありますか?
答:法華経、金光明経、仁王経などの経典に、すべて現世の報いが説かれていますが、ここでは法華経の文を引用します。法華経第八普賢菩薩勧発品には、
もし供養し讃歎する者あらば、当に今世において一たび現果報を得ん
と説かれています。
(出典:天台法華学生式問答第一巻)
国宝とは何か:伝教大師の思想
大師の言う「国家を守り万民を利益する」とは、大きく二つの側面があると思います。
一つは、神秘的な御祈祷の側面であり、もう一つは、常識的な意味での人材育成の側面です。
前者の御祈祷については、比叡山延暦寺が王城の鬼門を鎮める存在として存在している理由を考えれば、おおよその意味を理解できると思います。御祈祷と言えば、すぐに迷信だと決めつけるような人は、少なくとも我が宗派においては、世間に迎合する軽薄な人間と言わざるを得ません。
もう一つの側面、すなわち三式の目的である人材育成こそが重要です。では、国宝とは何かというと、六條式には、
国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。乃至道心ある仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己れに向へ、好事を他に与ふ。己れを忘れ他を利するは慈悲の極みなり。云々
意訳:国宝とはいったい何だろうか。宝とは、仏道を求める心である。仏道を求める心を持つ人を、国の宝とするのである。すなわち、仏道を求める心を持つ仏教徒は、西方では菩薩と呼ばれ、東方(日本)では君子と呼ばれる。悪いことは自分に向け、良いことは他人に与える。自分を忘れて他人を利することは、慈悲の極みである。
とあり、要するに、菩薩を国宝とするのです。また、
その国講師一任の内、毎年安居の法服の施料は、すなわち当国の官舎に収納し、国司、郡司、相対して検校し、国の裡の池を修め溝を修め、荒れたるを耕し崩れたるを埋め、橋を造り船を造り、樹を殖え紵を殖え、麻を蒔き草を蒔き、井を穿ち水を引き、国を利し人を利するに用ゆ。経を講じ心を修めて農商を用いず。然れば則ち道心の人、天下に相績し、君子の道、永代に絶えざらむ。
意訳:国が任命した講師にすべてを任せることとし、毎年、僧侶が修行の際に着る法衣の費用は、国の役所に納める。そして、国司(地方長官)と郡司(郡の長官)が互いに立ち会って内容を検査し、そのお金を国の池や用水路の修理、荒れた土地の開墾、崩れた土手の修復、橋や船の建造、桑や麻などの作物の栽培、井戸の掘削や用水の確保など、国や人々のためになる事業に使う。経典の研究や心の修行に励む僧侶は、農業や商業に従事しない。そうすれば、仏道を志す人々が世の中に次々と現れ、君子の道が永遠に絶えることはないだろう。
とあります。
右の六條式は、慈悲の心によって人々を大きく導くものです。仏法が世々に長く続き、国家が永遠に安泰であり、仏の種が絶えないことを願っています。
又、四條式に、
竊に以みるに、菩薩の國寶は法華經(譬喩品云其劫名日大寶荘嚴何故名日大寶莊嚴其國中以菩薩為大寶故)に載せ、 大乘の利他は摩訶衍の說なり。彌天の七難は大乘經にあらすんば何を以てか除くことを為む。未然の大災は、菩薩僧にあらすむば, 豈、冥滅することを得むや。利他の徳、大悲の力は、 諸佛の稱する所。人天歡喜す。仁王經の百僧、必、 般若の力を假り、請雨經の八徳、亦大乘戒を屈す。國寶,國利、菩薩にあらずして誰ぞや。佛道には菩解と稱し。俗道には君子と號す。其の戒廣大にして眞俗一貫す。故に法華に二種の菩薩を列ぬ、文殊師利彌勒等 は皆出家の菩薩にして、跋陀篦等の五百の菩薩は皆、是れ在家の菩薩なり。法華の中具に二種の人を列ねて以て一類の衆と為し、比丘の類に入れず、以て大類と為す。今、此の菩薩の類は、此の間に未だ顯に傳はらす。云々
私が思うに、菩薩は国の宝であると法華経に記されています(譬喩品には「その劫(時間の単位)を大宝荘厳という。なぜ大宝荘厳と名付けられたかというと、その国では菩薩を大きな宝としているからである」とあります)。大乗仏教における他者への利益は摩訶衍の教えです。天地を震わせる七つの災難は、大乗経典がなければどうやって取り除くことができるでしょうか。これから起こるかもしれない大きな災いは、菩薩の僧侶がいなければ、どうして消し去ることができるでしょうか。他者を利する徳と大いなる慈悲の力は、諸仏が称賛するところであり、人々や天も喜びます。仁王経に記される百人の僧は必ず般若の力を借り、請雨経の八つの徳もまた大乗の戒めを用います。国の宝、国の利益となるのは、菩薩以外に誰がいるでしょうか。仏道では「菩薩」と呼び、世俗の道では「君子」と称します。その戒めは広大で、真理と世俗を一貫しています。そのため法華経には二種類の菩薩が挙げられています。文殊師利や弥勒などは出家した菩薩であり、跋陀婆羅などの五百人の菩薩はすべて在家の菩薩です。法華経の中では詳しく二種類の人々を挙げて一つのグループとし、比丘(出家した修行僧)の類には入れず、大きなグループとしています。現在、この菩薩の種類はこの地域ではまだ明らかに伝わっていません。云々
つまり、出家者も在俗者も、真実の求道者、すなわち菩薩となるようにするのが大師(最澄)の願いであり、これこそが根本的な国家の守護と万民の利益となるのである。
ここでいう求道心とは、菩提心であり、菩提心とは、深く他者との一体性を理解し、人々を救い、悟りを求める慈悲心、さらに言えば、信仰心である。
徹底した愛国心とは、結局、この大いなる求道心の表れでなければならない。
しかし、この求道心を持つ菩薩となることは、理論上のことではなく、実践の上で表れてこそ初めて菩薩と呼ばれるのであり、そのためには純粋な大乗菩薩の戒律の受持を基礎としなければならない。
その戒は、菩提心の敵である自己中心的な考え方を持つ二乗(小乗仏教の修行者)と共通のものではあってはならない。純粋な円頓菩薩の大戒でなければならない。
そこで、この菩薩戒の授受方法を確立するために制定されたのが三式、中でも四条式なのである。そして、この式は遠くはインドの清らかな伝統に倣い、近くは中国の制度を参考にしたものであり、決して宗祖の独断ではない。『顕戒論』一部は、この意味を力説したものであるに他ならない。
円頓戒に込められた願い
宗祖は、このような重要な問題を、帰国後すぐに発表せず、弘仁九年までの十数年間、胸に秘めていた。なぜなら、一度発表すれば、必ず大きな反発が来るだろうと予想し、それに対する綿密な研究を重ね、いかなる反発が来ても恐れるに足らないという確信を得るために準備をしたからだろう。
案の定、南都六宗は、全力を挙げてこれに抵抗し、東大寺の景深律師などは、『迷方示正論』を著し、二十八の誤りを挙げて大師に迫ったという。
宗祖は、これらの攻撃に対し、こだまが声に応じるように、たちまち『顕戒論』三巻を著し、五十八条にわたって経典の明白な根拠を示し、かつ内証仏法相承血脈譜を作り、四宗の伝統を明らかにして朝廷に提出した。
誠に論拠は明白で、理路整然としており、少しも疑念を挟む余地がない。彼ら六宗も、残念ながら沈黙せざるを得なかったのである。
しかし、朝廷は、なおも大師の三式に対する勅許を与えなかった。
前に述べたように、大師が三式を制定されたのは、小乗の戒律を混ぜず、純粋な大乗菩薩戒によって天台宗の僧侶を育成するためであり、結局、東大寺戒壇とは別に、叡山に純粋な大乗戒壇を設ける許可を願ったのである。
『顕戒論』や『血脈譜』によって、その道理と証拠は十分に確かであったにもかかわらず、なおも許可を得ることができなかったのは、誠に遺憾千万なことであり、もし桓武天皇がご存命ならば、などと愚痴も出るのである。
大師は、このような状況の中、弘仁十三年六月四日に早くも亡くなられたのは、返す返すも残念千万である。
しかし、主上も深くこれを悲しみ、同十一日付で、とりあえず円頓戒実行の勅許が下されたのであった。
そもそも、円頓菩薩戒は、中心となる法華経の教えが、道徳的実践の上に表れた真俗一貫の大道であるから、法華経を信じる者である以上、必ず行わなければならない法規なのである。
決して小乗戒と妥協することは許されないから、従来行われていた南都仏教の型にはまることはできない。
これは根本的な教理の相違から来るので、どうしようもないのである。したがって、大師が南都の仏教に背いたのは、日本に対する愛国的熱誠が、法華経の信仰と一体となって燃え上がったとしか言いようがない。
ご遺言の中に、『私のために経を写すな、寺を建てるな、ただ私の志を述べよ』とあるのを、光定師は、『志を述べよ』とおっしゃられたのは、『円頓戒を弘通せよ』というお考えであると解釈している。また、『私は戒法のためには身を惜しまない』ともおっしゃっている。これによって、宗祖の熱い思いを推し量ることができるだろう。
以上述べた中に含まれる精神を要約すると、法華経の三千実相、十界皆成仏の確信に立ち、在家も出家もともに円頓菩薩の大戒を受持し、速やかに仏心を理解し、三密加持の生活に安住し、国家を鎮護し、即身成仏の大事を成し遂げる、ということに帰着するだろう。