比叡山を開いた伝教大師最澄は、法華経の教えを中心に、日本仏教の新たな展開を目指しました。その壮大な構想と実践の道のりを見ていきましょう。
法華経への深い感銘
最澄の法華経との出会いは、比叡山に入山した直後にさかのぼります。
天台大師の教えを通じて法華経の真髄に触れた最澄は、深い感銘を受けました。その熱意は、延暦20年(801年)に十大徳を比叡山に招請する際の文書にも表れています。
最澄、法華を傳へ奉るの深心大願を發起す云々
意訳:最澄が、法華経の教えを敬意を持って伝えていくという、深い信念に基づいた重大な誓いを立てた
ここからは、法華経を広める強い決意が感じられます。
入唐求法の真意
さらに注目したいのは、最澄の入唐求法の動機です。
桓武天皇の「天台の高き跡を興隆せむ」(中国天台宗の優れた教えと伝統を日本で新たに興し、さらに発展させよう)という御心に感激した最澄は、入唐を願い出ます。
その際の表には「法華の深旨、なお未だ詳釈あらず」と記され、法華経の深い教えを究めることが最大の目的とされていました。
帰国後の実践
帰国後も、最澄の法華経重視の姿勢は変わることはありませんでした。自身の宗派を「新法性宗」と呼びながらも、公式には「天台法華宗」という名称を使用しており、法華経を中心に据えた教えを広めようとしていたことがわかります。
六所宝塔の建立も、法華経の教えを伝える道場としての意味を持っていたと考えられます。
時代認識と日本仏教の展望
特筆すべきは、最澄の時代認識です。
「守護章」には、次のように書かれています。
當今は人機皆轉變して都て小乘の機なし。正も像も稍、過ぎ已って末法太だ近きに在り。法華一乘の機今 正しく是れ其の時なり。何を以て知ることを得るか,安樂行品の未世法滅の時なればなり。
引用:『守護章』
意訳:現代において、人々の機根(教えを受け入れる素質)は全て変化してしまい、小乗仏教(個人の悟りを重視する仏教)を受け入れる素質は誰にもなくなっています。正法(仏陀在世の時代から500年)も、像法(その後1000年)もすでに過ぎ去り、末法(正法・像法の後の時代)が間近に迫っています。法華経の一乗の教え(全ての人が仏になれるという教え)を受け入れる時機は、まさに今がその時なのです。なぜそれがわかるのかというと、法華経の安楽行品に説かれている、末世における法(仏法)が滅びゆく時期だからです。
当時はもはや小乗仏教の時代ではなく、末法の時代に近づいており、まさに法華一乗の教えを広めるべき時期だという考えが示されています。
最澄は、日本人こそが法華一乗の機根を持っていると確信し、それに相応しい教えを広めようとしたのです。
メモ:三時の考え方
- 正法:釈迦の教えが最も純粋な形で伝わる時期(釈尊入滅後500年)
- 像法:教えは残っているが、実践が衰える時期(その後1000年)
- 末法:教えと実践の両方が衰える時期(その後)
聖徳太子への深い敬意
弘仁7年(816年)、最澄は大阪の四天王寺にある聖徳太子の廟を参拝し、深い決意を込めた詩を聖徳太子へ向けて詠まれました。
今我が法華聖德太子は、是れ南岳慧思大師の後身なり。厩戶に託生して四國を汲引し、持經を大唐に請し,妙法を日域に興し、木鐸を天台に振ひ、其の法味を相承し給へり。日本の玄孫興福寺沙門最澄、愚なりと雖、願くば我師の敎を弘めむことを。渴仰の心に任へず、謹で一首を奉る。
海内求緣カ 歸心聖徳宮 我今弘妙法 師教令無窮 兩樹隨春別 三卉應節同 願唯使圓教 加護助興隆
引用:『伝述一心戒文』
意訳:今、私たちの法華経の教えを広めた聖徳太子は、中国の南岳慧思大師の生まれ変わりでいらっしゃいます。厩戸皇子として生まれ変わり、日本の国々を導き、経典を中国から請い、妙法(素晴らしい仏法)を日本の地に広め、天台の教えの鐘を鳴らして(広く知らせ)、その仏法の真髄を受け継がれました
日本の後継者である興福寺の僧侶、最澄は、不才ではありますが、我が師である聖徳太子の教えを広めたいと願っております。この深い尊敬と慕いの気持ちを抑えることができず、謹んで一首の詩を捧げま
海の内に縁力を求め
心を聖徳の宮に帰す
我れ今妙法をば弘め
師教をして無窮ならしめん
雨樹は春に随いて別かれ
三卉は節に応じて同じうす
願わくはこの円教をして
護助を加えて興隆せしめたまえ
この詩には、最澄の仏教観と聖徳太子への深い敬意が込められています。
海の内に縁力を求め
これは「日本の国中で仏教との縁(えん)の力を求める」という意味です。「海の内」は日本全土を指し、「縁力」は仏教との深いつながりを意味します。最澄は全国の人々と仏教の縁を結ぶことを願っていたのです。
心を聖徳の宮に帰す
「聖徳太子の御廟(みびょう)に心からの敬意を捧げる」という意味です。「帰す」には、心から帰依する、深く信頼して従うという意味が込められています。最澄は聖徳太子を日本仏教の偉大な先達として深く敬愛していました。
我れ今妙法をば弘め
「私は今、法華経の素晴らしい教え(妙法)を広めていきたい」という意味です。「妙法」は特に法華経の教えを指し、最澄の核心的な使命を表現しています。
師教をして無窮ならしめん
「師の教えを永遠に続かせたい」という意味です。「無窮」は果てしない、永遠という意味で、聖徳太子の教えを未来永劫に伝えていきたいという強い決意が表れています。
両樹は春に随いて別かれ
「二本の木は春の訪れとともにそれぞれ異なる様子を見せる」という意味です。これは法華経の譬喩を用いて、人々の様々な個性や能力の違いを表現しています。
三卉は節に応じて同じうす
「三つの草は季節に応じて同じように育つ」という意味です。これも法華経の譬喩で、異なる性質を持つ人々も、仏の教えによって等しく成長できることを表しています。
願わくはこの円教をして
「どうか、この完全な教え(円教)を」という意味です。「円教」は法華経の完全な教えを指し、あらゆる人を救済できる究極の教えとされています。
護助を加えて興隆せしめたまえ
「守り助けを与えて、さらに広く発展させてください」という意味です。仏や諸菩薩の加護を願い、法華経の教えがさらに広まることを祈願しています。
この漢詩全体を通して、最澄は聖徳太子への深い敬意を示しながら、法華経の教えを日本全土に広めていきたいという決意を表明しています。
また、様々な人々の個性を認めながらも、最終的には法華経の教えによって皆が救われるという理想を詠み込んでいます。
これは最澄の仏教観と日本仏教の未来への展望を端的に表現した重要な詩といえるでしょう。
最澄の願い
この詩を通じて、最澄は聖徳太子の思いを継承し、法華経の円教(完全な教え)を広めたいという願いを表明しています。
それは単なる教理の伝達ではなく、「諸法実相三千円融の妙諦」という法華経の深遠な真理によって、他の教えを包摂し統合するという壮大な構想でもありました。