今回は、熊本県の道徳の教科書にも登場する「豪潮律師」と釈迦院の関係を紹介いたいます。
(画像出典:仙厓禅師墨林冊「豪潮律師肖像画」)
豪潮律師とは
誕生と幼少期
豪潮(ごうちょう)は、熊本県玉名郡山下村(現在の玉名市)の専光寺の次男として生まれました。
幼名はわからりませんが、七歳で得度した際、師である豪旭から「快潮」と名付けられ、この際に戒名「豪潮」も授かっています。また豪潮律師が16歳で比叡山に登り、13年間におよぶ修行により「寛海」という尊号を受けています。また「無所得道人」や「八万四千煩悩主人」という号も名乗っていました。
七歳の時、父の貫道から「私は僧侶になったものの、理想とする僧侶になることはできなかった。お前には私の志を継いで、それを実現してほしい」と言われ、この言葉がきっかけとして、豪潮は玉名郡の寿福寺の豪旭(ごうきょく)和尚の弟子となり、僧侶としての第一歩を踏み出します。
修行時代
16歳で比叡山に登り、豪恕(ごうじょ)大僧正について13年間の厳しい修行を重ねました。その後、故郷に戻って寿福寺の住職となり、寺院から酒器をすべて集めて粉々にした逸話があります。それは厳格に戒律を守るためであり、その評判は次第に広がり、九州の多くの大名たちが彼を信頼するようになりました。
朝廷での活躍
京都の聖護院宮一品盈仁親王の推薦により、朝廷に招かれ、宮廷の方の病気治療を行いました。その法験が認められ、朝廷から京都東の森積善院に住まいを与えられ、様々な病気を治すための祈祷を行いました。
晩年の活動
文政2年(1819年)、70歳を過ぎてから熊本の細川家の要請で帰郷。その後、尾張徳川家の斉朝(なりとも)候の招きで、愛知県の長栄寺に住し、再興を果たし、中興の開山とされています。
功績として、全国に八万四千基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建立したことが挙げられます。その一つは今でも高瀬町(現在の玉名市)に残っています。また、多くの観音像を彫刻して各寺院に奉納しました。
また「南無軻彌陀なむあみたぶつ聲ごとに、願ふ浄土のちかくなりける」といった書も多く書き残されている。
天保6年(1835年)閏7月3日、87歳でその生涯を閉じました。
(参考:玉名市HP)
詩
豪潮律師は、仏教に関する漢詩や詩を残しておられるので、ここに紹介いたします。
三拜一心稱一字 一書一字一如來 無去無去如來現 抄法蓮花筆下関
意訳
三度拝み、一心に一字を称え
一書一字に一如来あり
去ることなく去ることなく如来現れ
法を写す蓮の花は筆の下に開く
一文字一文字を書く前に三度お辞儀をし、心を込めて称えており、それぞれの文字に如来(仏)の存在を見出していることを表現しています。
集中して写経に没頭することで、如来の存在を感じ、筆を運ぶごとに、法(仏の教え)が蓮の花のように開いていくことを感じているといいます。
これは写経の行為を通じて、精神的な悟りや気付きを得ていく過程を表現した詩といえます。
借宅證文の事
一,地水火風空の作の家一軒右借用仕候處實證也、御入用の節は何時にても差上可申候、爲後日如件、
さあさあ、宿替えの御用心御用心
意訳:
『借家証文の件
一、地水火風空(人間の身体のこと)でできた家 一軒
上記の家を確かにお借りいたしました。ご入用の際はいつでもお返しできます。後日のためにかくの通り。
さあさあ、引っ越し(死んで生まれ変わる)の際にはご用心ご用心!』
この文章は、実際の借家証文の形式を真似ながら、仏教でいわれる五大要素(地水火風空)は、肉体を表せいていまsう。
組み込んで面白おかしく表現しています。
この肉体がいつ死んでも(宿替え)いいように、生死の問題の解決をしなさいよと、歌われているのです。
欲得長生樂 終無不老家 雪殘頭上白 春入眼中震
意訳:長生を願い楽しみを求めても
不老の家など終にはない
雪は頭上に白く残り
春は目の中に震える
この詩は豪潮律師の辞世の句であり、人生の無常と老いについて詠んでいます。
永遠の若さや不老長寿を望んでも、それは叶わないものであり、白髪が増えていく一方で、目に映る春の景色に心が揺れる という心情が表現されています。
豪潮律師は、このような詩を通して、仏教を伝えていかれながら、多くの方と交流されていました。
交流や逸話
豪潮律師は、瑞岡珍牛や、仙厓、良寛など全国の高僧や思想家との交流もあり、さまざまな逸話があります。
中外日報に「隠れたる大徳の遺芳」として次のような逸話が紹介されました。
江戸時代、本願寺の耆宿である雲華院と、高名な儒学の大家の頼山陽が出会う機会がありました。二人は豪潮律師の知恵を試そうと、面白い策を試しました。
仕掛けられた知恵比べ
二人は、孔子と釈迦が相撲を取っている絵を描きました。
その絵では、釈迦が孔子に投げ飛ばされているところが描かれています。
そして豪潮律師が来るのを待ち構えていました。
やがて豪潮上人が何も知らずにやってきたところで、二人はその絵を見せ、「この絵に讃(コメント)を書いてみよ」と依頼しました。
豪潮律師の返答
豪潮上人はその絵をじっくりと見つめた後、「よし、来た!」と即座に筆を取り、次の讃を書き記しました。
孔子只説一世 釈迦説三世 笑而絶倒
この意味は、
孔子は現世のことだけを説いているが、釈迦は過去・現在・未来の三世因果について説いている。だから(この相撲で投げ飛ばされているように見えても)釈迦は孔子を笑って倒れているだけだ
というものです。
豪潮律師は、孔子と釈迦のそれぞれの教えと、人智(人間の知恵)と仏智(仏の知恵)の違いを巧みに、しかもユーモアをもって表現しました。
機知に富んだ返答を見た雲華院と頼山陽は、絶句してしまい、何も言い返すことができなかったといいます。
(※雲華院が讃をしたエピソードとしても伝わっています。)
豪潮律師と釈迦院
豪潮律師は九州にたくさんの宝塔を喜捨されており、釈迦院にも石像を喜捨されたと言われています。
此寺に程遠からさるに高山あり。心見が嶽と云山の頂に寺あり。釈迦院と云ひ五十餘町にして険岨なる事屏風を立たるが如し。山の半端に犬返といふ処あり。此所は帯の如くなる一路にして、左右は数千丈の谷也。巌峨々として犬たに通ひ難き所なる故、犬返りと笑ぬ。釈迦院へ参詣の人は案内者を知るべにて草鞋を 脱捨匍匐して漸に通る難所也。潮師釈迦の石像を新に彫刻させ、自此石像を背負ひ戒法なれは常に草履を履給はされは木履にて此山を易々と登り石像を釈迦院に奉納し給ふ。是人倫の及ぶ所ならずと人皆感驚せり。
引用:『郷土文化33巻第3号p32』(豪潮律師加持力霊験見聞集について)
意訳:この寺からそれほど遠くないところに高い山があります。心見ヶ岳という山の頂上には寺があり、釈迦院と呼ばれています。そこまでは約5キロメートル(五十餘町)あり、険しい崖は屏風を立てたかのようです。
山の中腹には「犬返り」という場所があります。ここは帯のように細い一本道で、左右は数千メートルの深い谷になっています。岩がごつごつしていて犬さえ通るのが難しい場所なので、「犬返り」と呼ばれています。
釈迦院に参拝する人は案内人を探す必要があり、わらじを脱ぎ捨てて這いつくばってようやく通れる難所です。
潮師は釈迦の石像を新しく彫刻させ、この石像を背負って運びました。戒律を守る身なので普段は草履を履いていましたが、この時は木履を履いてこの山を楽々と登り、石像を釈迦院に奉納しました。これは普通の人間には到底できないことだと、皆が感動し驚きました
釈迦院では現在、この石像は見つかっておりませんが、当時の釈迦院の状況を鑑みれば、豪潮律師が釈迦院を訪れになったことはありうることだと思われます。
昔から釈迦院が、修行の場所であり、参詣するには大変なところにありましたが、多くの人から大切にされていた場所だということがよくわかるエピソードです。