今回は、桓武天皇が平安遷都をされるにあたって、伝教大師が重要な関わりをされていたことについて解説します。
奈良時代末期の混迷
奈良時代の末期、都は深刻な危機に直面していました。
表面的には絢爛豪華な都の姿を見せていましたが、その実態は政治と仏教が混然一体となった腐敗の温床と化していました。
かつて聖徳太子が理想とした活動的な大乗仏教の精神は失われ、形骸化した儀式だけが残されていました。政治も宗教も、まさに行き詰まりの状態だったのです。
改革への道 – 桓武天皇と最澄の登場
この混迷を打破すべく立ち上がったのが、桓武天皇と若き僧侶・最澄(のちの伝教大師)でした。
桓武天皇は大胆な改革を決意し、まず延暦3年、都を奈良から長岡京へと遷すことを決断します。
これは単なる場所の移動ではなく、長年積み重なった弊害を一掃し、新たな出発を図るための象徴的な施策でした。
最澄の決意と比叡山
翌年の延暦4年、わずか19歳だった最澄は比叡山に入山します。
この時期に最澄が山に入ったことは、桓武天皇の改革の志に呼応するものだったかもしれません。
最澄は都を救うため、あえて都を離れ、山での修行の道を選んだのです。
平安遷都への険しい道のり
しかし、平安京への遷都計画は大きな障壁に直面します。
朝廷の賢人たちは、新たな都の候補地である葛野について、四神相応の地ではあるものの、比叡山が鬼門にあたることを理由に反対意見を具申しました。
彼らは、この地に都を置けば国家に災いが及ぶと懸念したのです。
平安遷都の経線について、比叡山延暦寺護国縁起には次のようにあります。
舊事本紀に云く、延暦五年、大納言小黒丸、散位右大辨小佐美以下八人の賢才、勅を奉じて平安の地形を相す、時に各、奏して云く、此の所は四神相應の地なり。然るに東北に當りて一高岳(比叡山を指す)あり、即ち是れ鬼門なり。たまく四神相應の靈地を得と雖、百寮怖畏の難なきにあらず。遷都の儀式宜しく天察あるべし。
引用:『比叡山延暦寺護国縁起』
意訳:旧事本紀によれば、延暦5年に、大納言の小黒丸と、官位を離れた右大弁の小佐美をはじめとする8人の賢人たちが、天皇の命を受けて平安京となる土地の地形を調査した。その時、彼らは次のように報告した。
「この場所は四神相応(理想的な都の条件を備えた)の地ではありますが、東北の方角に一つの高い山(比叡山)があり、これは鬼門(悪気が入ってくる方角)にあたります。せっかくの四神相応の霊地を得たとはいえ、朝廷の役人たちが恐れおののく災いがないとは言えません。遷都の儀式については、天の意志をよく察するべきです」
若き最澄の大胆な進言
この状況を聞いた最澄は、延暦7年、22歳という若さで桓武天皇に直接謁見し、大胆な進言を行います。
護国縁起にはこのように書かれています。
古徳の記に云く、延暦七年、伝教大師は、長岡の都に参向して龍顔に咫尺し奉り、奏して言さく、学ぶ所の教法は、是れ善悪不二、邪正一如、魔界即佛界の所談なり。謂ゆる第一義諦常安穏の都を建て給へ。専ら帝徳を仰ぎ、偏に佛法を崇むる最澄に於ては、天子本命の伽藍を建て、鎭護国家の誓護を致さむ。然らば遷都、何に依つて滞あらむ。時に 桓武天皇微笑の氣あらせ給ふ。其の後延暦十三年十月二十一日、吉日良辰を選ばず即ち遷都し給へり。
引用:『比叡山延暦寺護国縁起』
意訳:古い記録によれば、延暦7年に、伝教大師(最澄)は長岡京に参内して天皇に拝謁し、次のように申し上げました:
「私が学んでいる仏教の教えでは、善と悪は二つではなく、正と邪も一つであり、魔の世界も仏の世界も同じだと説いています。
どうか最高の真理に基づいた、常に平安な都をお建てください。
私最澄は、ひたすら天皇の徳を仰ぎ、もっぱら仏法を尊ぶ者として、天皇の本命年にちなんだ寺院を建立し、国家を守護することを誓います。
そうであれば、どうして遷都を躊躇されることがありましょうか」
この時、桓武天皇はお喜びの様子で微笑まれました。その後、延暦13年10月21日、特に吉日を選ぶこともなく、すぐに遷都が行われたのです。
最澄は仏教の「善悪不二、邪正一如」の教えを説き、比叡山に国家を守る寺院を建立することを約束しました。
この若き僧侶の信念に満ちた言葉に、天皇は深く感銘を受けたと伝えられています。
平安京と比叡山の誕生
最澄はすぐさま根本中堂の建設に着手し、延暦12年に完成させました。
翌13年には桓武天皇が比叡山に行幸し、その翌月、ついに平安京への遷都が実現します。
こうして京都と比叡山は、車の両輪のように互いに支え合う関係として確立されました。
新時代の幕開け
この歴史的な出来事により、延暦寺は国家護持の寺院として特別な地位を与えられ、寺の名に「延暦」という年号を冠することを許されました。
これは寺院の名に年号を使用した最初の例として、延暦寺の重要性を物語っています。
さらに桓武天皇は次のように述べられています。
七大寺は六宗を学ぶと雖も、鎮護国家の道場は、偏に叡岳の霊窟に留まる。
引用:『比叡山延暦寺護国縁起』
意訳:奈良の七大寺は六つの仏教の宗派を学んでいるとはいえ、国家を守護する真の修行道場は、もっぱら比叡山という神聖な場所だけにある
奈良の大寺院が様々な仏教の教えを学んでいても、国家を守護する真の道場としては、比叡山を特に認めていたということでしょう。
かくして、桓武天皇と最澄の深い関わりにより、平安時代という新しい文明の幕が開かれたのです。