法華経の観行(かんぎょう)とは、天台宗の五時八教という教えの体系に基づいて、法華経の真の価値を理解し、その教えを実践し、悟りを得るための修行方法のことです。
「観行」という言葉は、単なる瞑想や思索ではなく、仏教の教えを実践的に体得していく修行方法を指します。
特に法華経の観行は、天台宗の核心的な修行法として位置づけられています。
この修行方法は、天台智顗(天台智者大師)が57歳のときに確立しました。
彼は荊州(けいしゅう)の玉泉寺で夏安居(げあんご)の90日間、朝と夕の2回にわたって法会を開き、「一念三千」という深遠な教えを実践する方法を説きました。
この実践方法の具体的な指針として「十乗観法」が示されていますが、本質的には最初の段階である「観不思議境(かんふしぎきょう)」が最も重要です。
五時八教について
「五時八教」とは、天台宗の教相判釈であり、天台智顗が仏教の様々な教えを体系的に整理した教えの分類方法です。
- 五時:釈迦の説法を時期によって5つに分類
- 八教:教えの性質と説き方によって8つに分類
これによって法華経の位置づけを明確にし、その真価を理解することができます。
十乗観法と観不思議境の重要さ
十乗観法は修行の段階的な方法を示していますが、その中でも特に重要なのが最初の「観不思議境」です。
大まかに言えば、次のような修行法となります。
- 私たちの心の中に宇宙の真理が含まれているという驚くべき事実を観察する
- その観察を通じて悟りへの道を開いていく
- 理論的理解から実践的体得へと進んでいく
観行について、恵澄和尚の「止観大意綱要」を参考にしたいと思います。
恵澄和尚の「止観大意綱要」による一念三千
原文と、意訳と、基礎知識を解説します。
陰妄の一念(吾人の上に日夜に起滅しつつある一念心を指す)に諸法を融摂して遺すことなき三千の妙理を不思議といふ。智慧の目當になれば境といふ。智意の理を照す功用を觀といふ。
諸法を融攝する道理を近く取りて云はば、日本六十餘州五畿七道に就いて見るに何れの國にても、帝王の都する所より近き國を五畿とし、其の方角に隨つて七道を分てば、六十餘州の何れの國にても,都となり、 五畿となり、七道とならざる國なければ、日本を統べざる國はなし。
意訳:私たちの心に生じる迷いの一念(これは私たちの心の中で昼夜を問わず生まれては消えていく限りなく一瞬の心のことを指します)の中に、宇宙のあらゆる存在を余すことなく含んでいるという三千世界の深遠な真理があります。
これを「不思議」と呼びます。この真理が智慧の対象となるとき、それを「境」と呼びます。
また智慧の心が、真理を照らし出す働きを「観」と呼びます。
このあらゆる存在を包含する道理を分かりやすく説明するために、当時の日本の行政区分を例に取ってみましょう。日本の六十余州において、天皇の都に近い国々を五畿とし、その方角によって他の地域を七道に分けます。
このとき、どの国も視点を変えることで都となり、五畿となり、七道となる可能性があります。つまり、日本という全体を構成しないような国は一つもないのです。
一念三千の基本的な考え方
一念三千の一念というのは、非常に短い時間のことです。
一念は、私たちの心に刻々と生まれては消えていく、ほんの一瞬の思いを指します。
例えば、朝起きたときの「眠い」という思い、通勤電車で「座りたい」と感じる思い、仕事中に「お腹が空いた」と感じる思いなど、日常生活の中で絶え間なく生じている、そうした一瞬一瞬の心の動きのことです。
次に「三千」とは、宇宙に存在するあらゆるものを象徴的に表した数字です。
これは単なる数量的な意味ではなく、「すべて」「完全」「全体」を表現しています。
不思議・境・観の関係性
次の三つ言葉は、とても重要な教えです。
- 「不思議」:私たちの一瞬の心の中に宇宙の真理が全て含まれているという驚くべき事実そのもの
- 「境」:その真理が智慧の対象として現れたもの
- 「観」:その真理を智慧の力で照らし出す心の働き
これらは水と波の関係のようなものです。
水(真理)があり、その水が波として形を取り(境)、私たちがその波を見て水の本質を理解する(観)とようなものといえます。
三千の妙理と十界の相互関係
三千の妙理も亦、是の如し。十界の諸法は、一を擧ぐれば全く一切を收む。十界に就いて云は、、地獄界を都とすれは、近き畜生、餓鬼、修羅は 五畿なり。遠き人,天、四聖は七道なり。若し人界を都とすれば、近き畜生、鬼趣、天道は五畿なり。遠き 地獄、四聖は七道なり。佛界を都とすれば、近き菩薩,二乘は五畿なり。遠き人、天、四趣は七道なり。十界互に都と爲り、五畿と為り、七道と為り、各、十界を收め、依正色心の諸法も互に融攝して隔つる無きこと、亦、是の如し。これを果德に顯はせば、三十七尊互に主と爲り伴と爲りて、各,三十七尊を具足す。この三千卽空假中なるは、六十餘州皆同じここなれは、何れを何れと分別すべき所なきは空なり。六十餘州各六十餘州を具するは假なり。皆一樣なれば彼此の對待を絕するは中なり。法に本より具へろを諦と云ひ、人の智慧に顯はるるを觀と云へば、三諦三觀は、體は、唯、一の三千なり。法に就き(諦)人に就く(觀)義に從へて名を異にするなり。
三千世界の深遠な真理・諸法実相もまた、そのたとえのようなものです。
十界のあらゆる存在は、その一つを取り上げれば、そこにすべてが含まれています。
十界について具体的に説明すると、例えば地獄界を中心に据えた場合、畜生、餓鬼、修羅という近い世界が「五畿」となり、人、天、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)という遠い世界が「七道」となります。人界を中心とした場合は、畜生、餓鬼、天が近い世界となり、地獄と四聖が遠い世界となります。仏界を中心とした場合は、菩薩と二乗(声聞・縁覚)が近い世界となり、人、天、四趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)が遠い世界となります。
このように、十界はそれぞれが中心となり、近い世界となり、遠い世界となって、互いに包含し合っています。依報・正報・色・心といったあらゆる存在も、同様に融け合って隔たりがありません。
これは仏の功徳として現れるとき、三十七尊それぞれが主となり従となって、各々が三十七尊を完全に具えているのと同じです。
この三千世界は空・仮・中という三つの真理そのものです。
すべての存在が相互に関連して独立して存在しないことが「空」であり、それぞれの存在が他のすべての存在を含んでいることが「仮」であり、すべてが平等で対立を超えていることが「中」です。
日本の行政区分の比喩の意味
この深遠な真理を説明するために、当時の日本の行政区分が例として使われています。
この比喩は、以下のような重要な特徴を示しています。
- 相互関連性:どの地域も他の地域と切り離せない関係にある
- 視点の可変性:見る位置によって、同じ場所でも異なる意味を持つ
- 全体性:どの部分も全体を構成する重要な要素である
これを十界に当てはめると次のようになります。
「十界」と「十界互具」と「三千世間」
「十界互具」と「三千世間」の考え方について説明したものです。順を追って解説していきましょう。
まず基本的な概念として、仏教では生きとし生けるものの存在する世界を10種類に分類します。
- 地獄界 – 苦しみの世界
- 餓鬼界 – 飢えと渇きの世界
- 畜生界 – 動物の世界
- 修羅界 – 争いの世界
- 人界 – 人間の世界
- 天界 – 天人の世界
- 声聞界 – 仏の教えを聞いて悟りを目指す修行者の世界
- 縁覚界 – 独力で悟りを目指す修行者の世界
- 菩薩界 – 衆生救済のために修行する者の世界
- 仏界 – 悟りを得た仏の世界
この文章で説明されていることは、これらの十界が互いに含み合う関係にあるということです。
「十界の諸法は、一を擧ぐれば全く一切を收む」という冒頭の一文は、どの界を中心(都)として見ても、その中に他の全ての界が含まれているという原理を示しています。
たとえば以下のような例が挙げられています。
- 地獄界を中心とした場合
- 五畿(近い領域):畜生界、餓鬼界、修羅界
- 七道(遠い領域):人界、天界、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)
- 人界を中心とした場合
- 五畿:畜生界、餓鬼界、天界
- 七道:地獄界、四聖
- 仏界を中心とした場合
- 五畿:菩薩界、二乗(声聞・縁覚)
- 七道:人界、天界、四趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)
この「五畿」「七道」という表現は、古代日本の行政区分(五畿七道)になぞらえて、近い関係にある世界と遠い関係にある世界を表現しています。
さらに重要なのは、これが単なる世界の分類ではなく、「依正色心の諸法も互に融攝して隔つる無きこと」と説明されているように、依報(環境)、正報(主体)、色(物質的なもの)、心(精神的なもの)のすべての現象が互いに融け合い、隔てなく関係し合っているという考え方です。
依正色心の融摂
「依正色心の諸法も互に融摂して隔つる無きこと」という部分は、以下の四つの要素が相互に融け合っているという意味です:
- 依報(えほう):環境や周囲の状況
- 正報(しょうほう):私たちの身体
- 色(しき):物質的な現象
- 心(しん):精神的な現象
これらは別々のものではなく、互いに深く関連し合っているということです。
現代の生態学や環境科学の視点とも通じる考え方です。
三諦の真理
最後に、「空・仮・中」という三つの真理について説明されています。
- 空諦:「何れを何れと分別すべき所なきは空なり」
- すべての存在が相互に関連していて、独立して存在するものはないという真理
- 例えば、一つの花は、土、水、日光、空気など、様々な要素が関係し合って存在しています
- 仮諦:「六十余州各六十余州を具するは仮なり」
- それぞれの存在が、一時的な形として現れているという真理
- 例えば、私たちの身体は、様々な細胞や器官が一時的に集まって形成されています
- 中諦:「皆一様なれば彼此の対待を絶するは中なり」
- すべての対立や区別を超えた調和の真理
心法(心の法)の重要性に関する解説
偖て此の三千は、何れの法も同じことなれども、經論の中多く心法に就いて之を說く。一家の觀法、皆、 己心を境と爲す所以は、蓋、心法は迷情の上にては、手近く自己の上に取り、一切の所作は、皆心を本とすれば,簡要なるが故に、近要に從へて心法を取るとふなり。例せば六十餘州皆、五畿、七道なれども、山城の國は、今日の上は近く帝王の居所にして,又、日本の正中に見ゆれば,山城に就いていへば、五畿七道を心得易ぎが如し。
さて、この三千の真理は、あらゆる現象において同じように存在しているのですが、経典や論の中では特に「心法」(心の働き)に焦点を当てて説明されることが多いのです。
天台宗の観法(瞑想修行法)がすべて自分の心を対象とする理由は、迷いの心という観点からすると、心法は自分自身の中に最も見出しやすく、また、あらゆる行為は心を根本としているため、最も簡潔で重要だからです。
これは例えば、日本の六十余州がすべて五畿七道の関係性を持っているように、山城の国(現在の京都)は、天皇の居所に近く、また日本の中心に位置しているため、山城を例にとって五畿七道の関係を説明すると理解しやすいのと同じことなのです。
「三千」という教えと
「三千世間」とは、前述の十界互具の理論から導き出される、この世界を表す数です。
十界(存在の十の状態)それぞれが十界を具えることで百界となり、さらにそれぞれが十如是(存在の十の様相)を持つことで千界となり、最後にそれぞれが三種世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)を具えることで三千となります。
心法の重要性
「經論の中多く心法に就いて之を說く」とは、経典や論書の中で、しばしば心法に基づいて三千世間が説かれる、という意味です。
これには次のような理由があります。
- 直接性: 「手近く自己の上に取り」という表現が示すように、心は私たちにとって最も身近で直接的な観察対象です。外界の現象よりも、自分の心の動きの方が直接的に把握しやすいのです。
- 根本性: 「一切の所作は、皆心を本とすれば」という部分は、すべての行為や現象が心に基づいていることを指摘しています。これは仏教の根本的な考え方の一つで、心が現象世界の基礎となっているという理解です。
- 実践的効率性: 「簡要なるが故に、近要に從へて心法を取る」という表現は、心に注目することが修行の効率的な方法であることを示しています。
この考えを説明するために、当時の日本の行政区分である「六十餘州」(60以上の国々)と「五畿七道」(中央の五畿と地方の七道)を例にとり、特に山城国(現在の京都府南部)に注目しています。
山城国が選ばれる理由には次の2つがあります。
- 地理的中心性: 「日本の正中に見ゆれば」と述べられているように、山城国は日本の地理的な中心に位置していました。
- 政治的中心性: 「帝王の居所」として、政治の中心地でもありました。
この比喩は、心法の重要性を非常に効果的に説明しています。
山城国を通じて日本全体の行政システムを理解しやすいように、私たちの心を観察することで三千世間全体の真理を理解できるのだと、教えられてるのです。
ではどのような修行をすれば、このような真理がわかるのでしょうか?
修行の四種三昧と悟りへの道筋 – 天台宗の実践体系
修行の形式として「四種三昧」が示されています。
三昧(サマーディ)とは、深い精神統一の状態を指します。
四種は以下の通りです。
四種三昧
- 常坐三昧
常に座って行う瞑想修行です。90日間、一つの場所に座り続けて行う厳格な修行法として知られています。座禅を中心とした修行です。 - 常行三昧
絶え間なく歩き続ける修行法です。特に阿弥陀仏の名を唱えながら行う念仏行が代表的です。90日間、歩き続けることを基本とします。 - 半行半坐三昧
歩行と座禅を組み合わせた修行法です。柔軟に両方の利点を取り入れることができる実践的な方法といえます。 - 非行非坐三昧
歩行でも座禅でもない、日常生活のあらゆる動作の中で行う修行法です。食事や労働など、すべての行為を修行として捉えます。
私たちが日常生活でやれるのは、非行非坐三昧の行でしょう。
生活がそのまま求道となります。
しかし、これらの形式の違いはあくまでも外面的なもので、その本質は「十乘観法」にあります。
十乗観法
十乗観法とは、悟りに至るための10段階の観察方法を示したものです。
さらに、十乗観法は本質(体)「観不思議境」にあります。
観不思議境
これは、現象世界の不可思議な真理を観察することを指します。具体的には、先ほど学んだ一念三千の理を観察することです。
第一:観不思議境(かんふしぎきょう) 修行の最も基本となる段階です。ここでは、私たちの一瞬の心(一念)の中に三千世間のすべてが含まれているという不思議な真理を観察します。これは、すべての現象が相互に関連し合い、影響し合っているという深い洞察を得る段階です。
第二:真正発菩提心(しんじょうほつぼだいしん) 真実の悟りを求める心を起こす段階です。表面的な理解や一時的な感動ではなく、深い確信に基づいて悟りを求める心を確立します。これは、自分自身の悟りだけでなく、すべての存在の救済を願う利他の心を含みます。
第三:善巧安心(ぜんぎょうあんじん) 心を適切に落ち着かせる方法を学ぶ段階です。様々な妄想や執着に揺さぶられる心を、どのように安定させるかを実践的に学びます。これは現代でいうマインドフルネスに近い実践といえるでしょう。
第四:破法遍(はほうへん) 誤った見解や執着を破っていく段階です。私たちが当たり前だと思っている考えや価値観を批判的に検討し、より深い真理への理解を妨げる障害を取り除いていきます。
第五:識通塞(しきつうそく) 真理に至る道筋(通)と障害(塞)を明確に認識する段階です。何が自分の修行を進め、何が妨げているのかを客観的に理解します。これは自己認識の深化といえます。
第六:道品調適(どうぼんちょうてき) 三十七道品という仏教の実践法を、自分の状態に応じて適切に調整する段階です。これは、理論的理解を実践的な修行へと結びつける重要な過程です。
第七:対治助開(たいじじょかい) 特定の煩悩や問題に対して、適切な対処法を見出し実践する段階です。自分の弱点や課題に対して、具体的な解決方法を見出していきます。
第八:知次位(ちじい) 修行の各段階における自分の位置を正確に理解する段階です。これは、慢心を避け、適切な進歩を遂げるために重要です。
第九:安忍(あんにん) 修行過程で直面する様々な困難や逆境に耐える力を養う段階です。これは単なる我慢ではなく、深い理解に基づく安定した心の状態を指します。
第十:離法愛(りほうあい) 最後の段階として、修行法そのものへの執着を離れる段階です。手段としての修行にとらわれず、真の解脱を目指します。
このような観法を実践することで、修行者は「初住の位」という悟りの段階に達することができます。
仏教では、菩薩の修行段階を52位に分けています。
初住は、11段目を意味します。
さとりの五十二位
十信(1から10):信仰を深める準備段階の10位
十住(11から20):悟りへの確かな住処を得る10位
十行(21から30):実践を深める10位
十廻向(31から40):功徳を廻向する10位
十地(41から51):最高の悟りに至る10位
等覚(51段目):仏に等しい悟りの位
仏覚:(51段目):完全な悟りの位・妙覚ともいう
天台宗では、初住になったとき、「無明」(真理に対する無知)が断たれ、「中道」(究極の真理)を証得できると教えます。
初住は菩薩の十住修行の一つで、これを達成すると再び下界に転生することなく、最終的な解脱や仏果へと進むことが保証される境地とされています。
つまり本質的に成仏と同等の意味を持っています。
初住の位で実現される悟りは、質的に見れば仏果(52段目のさとり)と異ならないとされているのです。
天台宗だけではなく、他の宗派もこの悟りを目指していると、考えています。
方便の教え
密教、禅宗、戒律を重視する諸宗派の修行も、究極的には「一念三千の観行」という同じ目的に向かっています。
これらはすべて「筌蹄」(魚を捕る籠や獣を捕る罠の意)であり、つまり悟りに至るための方便として位置づけられています。
方便とは、嘘という意味ではなく、ウパーヤ(近づける)という意味で、真実の悟りに至るために絶対必要な手段をいいます。
方便なくして、真実に入ることは、絶対にありえないのです。
まとめ
法華経の実践と観行は、非常に複雑なステップのように思いますが、重要な点をまとめると、
天台宗の理論と実践は、密接に結びついた体系となっています。
それは単なる理論的な理解だけでなく、具体的な修行方法とその目的が明確です。
修行の目的は、52位のうち初住の位を目指します。この悟りを得ることで、52段と同等のさとりの内容を得られるからです。
その方法は、四種三昧があり、その本質は十乗観法であり、その中でもっとも重要なのが、観不思議境の修行によって、一念三千の理を観察することです。