多くの人が仏教に触れると、その奥深さに圧倒されます。
これはお釈迦さま在世の時代から変わらない課題でありました。
今回は、法華経の教えについて、その成立背景から凄さまで、深く掘り下げてみたいと思います。
ポイント
- 釈迦の教えは、聞き手の理解力に応じて段階的に説かれました。
- 最終的な目的は、すべての人が仏になれることを示すことでした。
- 法華経は、それまでの教えを統合し、最終的な真理を明かすものとして位置づけられています。
華厳時の教えられ方
釈迦が悟りを開いた直後、菩提樹の下で三十七日間、深遠な真理を説かれました。
しかし、その教えを聞く人々の理解力や素質には大きな差があり、賢い者はより深く理解し、理解力の劣る者はますます理解できないという状況でした。
そのため、文殊菩薩や普賢菩薩のような高位の菩薩、あるいは前世からの深い縁を持つ優れた資質の人々(宿世に機緣熱している大根性の人)は、仏の光明を受けることができました。
しかし、迦葉や舎利弗といった二乗(声聞・縁覚)の人々は、まるで耳の聞こえない人や口の利けない人のように、まったく悟りを得ることができませんでした。
これが五時教判の最初の華厳時といわれます。
ところが、実は釈迦がこの世に現れた本当の目的は、むしろこのような理解力の劣る二乗の人々、つまり大通智勝仏(大宇宙におられる仏の名前)の時代から縁のある人々を救うことにありました。
そのため、最初の華厳経の教えは非常に深遠で広大なものでしたが、肝心の二乗の人々が理解できなかったことを考えると、釈迦の一生をかけて教え導くという観点からは、大きな価値があったとは言えないのです。
そこで釈迦は、40年以上かけて、鹿苑(阿含)、方等、般若と段階的に教えを説き、二乗の人々を浅い理解から深い理解へと導いていきました。そして、ついに二乗の人々の理解力が十分に成熟したのを見計らって、霊鷲山の頂上で二つの場所(霊山と虚空)、三度の法会を開き、最高の教えである一乗の法雨を降らせました。
これにより、二乗の人々に、すべての存在(十界)が仏になれることを悟らせ、「信解品」で説かれているように、「貧しい放浪の息子も実は長者の子である」ということを明かして、使用人のような身分の低い者にも長者の財産を継がせたのです。これが法華経の教えなのです。
仏教における「乗」(じょう)の概念について、段階的に説明させていただきます。
「乗」とは、
「乗」は「乗り物」を意味し、人々を悟りへと導く教えを比喩的に表現したものです。ちょうど乗り物が私たちを目的地へと運ぶように、仏教の教えは私たちを悟りという目的地へと導くという意味です。
一乗(いちじょう)とは、すべての人が必ず仏になれるという究極の真理を説く教えのこと。自利利他の道。大乗仏教の教えを実践する人。
二乗(にじょう)とは、声聞乗(しょうもんじょう)と縁覚乗(えんがくじょう)のこと。
- 声聞乗は、仏の教えを聞いて悟りを得ようとする道
- 縁覚乗は、独り修行によって悟りを得ようとする道
「自分だけの解脱」を目指す、小乗仏教の教えを実践する人をいう。
法華経の「迹門」と「本門」について
法華経には28の章(品)があります。
前半の14品を「迹門の開顕」、後半の14品を「本門の開顕」と呼びます。
「開顕」とは、開権顕実の意味で、方便(権仮)を開き真実(実)をあきらかにするといういみ。方便とはウパーヤという意味で、目的を果たすために必ず必要な手段のこと。
後半の14品は「本地」を説くもので、これは釈迦が500億塵点劫(とてつもなく長い時間)の昔に最初に悟りを開いた、その本来の成仏のことを指します。これを「本地実成」と呼び、人がもともと住んでいる場所(本住処)があるようなものです。
一方、「迹」とは「迹用」(足跡としての働き)のことで、最初の成仏以来、何度も生まれ変わり、何度も姿を消しながら、説法によって人々を救ってきた大いなる働きを指します。これは、人が本来の住まいから出て、あちこちに足跡を残すようなものです。
さて、「迹門の開顕」とは、この経典の前半14品のことで、ここではまだ久遠の本地における実際の成仏については明かされていません。
前半の教え導かれ方には、「法説」「譬説」「因縁説」という3つの方法で説法を繰り返し(法説周、譬説周、因縁説周の三周)、釈尊一代の教えの真意を明らかにし、救いがたいと思われた二乗の者たちをも、たった一つの真実の仏の教え(一仏乗)に導くものです。
「三周説法」とは、同じ内容を説明の仕方を変えて3回繰り返すことを指し、これによって上根・中根・下根のすべての人々が成仏できるという約束・予言(記別という)を受けることができるのです。
小結
- 二つの門の構造
法華経は「迹門」と「本門」という二つの部分で構成されています。これは単なる構造上の区分ではなく、釈迦の教えの深さを段階的に明かしていく重要な教育的意図を持っています。 - 本地と迹の概念
「本地」は釈迦の本来の姿、「迹」はこの世に現れた姿を表します。これは深い意味を持つ概念で、釈迦が実は遥か昔に悟りを開いており、私たちが知る釈迦はその化身の一つに過ぎないという、法華経の核心的な教えを示しています。 - 三周説法の意義
同じ内容を3つの異なる方法(法説・譬説・因縁説)で説明する「三周説法」は、聞き手の理解力や素質に合わせて教えを伝える工夫です。これは現代の教育にも通じます。 - 普遍的な救済
特に重要なのは、この教えが「すべての人が成仏できる」という普遍的な救済を説いている点です。当時としては革新的な考え方でした。
法説周とは? – 三乗から一乗への道
「法説周」とは、直接的に仏の教えの真意を開示し、「三乗即一乗」(三乗の教えは即ち、一乗の教えである)という深遠な趣旨を説くものです。
そもそも、真実の道というのは、最初から「二つ」も「三つ」もなく、ただ一つの大きな道(一乗)しかありませんでした。
しかし、教えを受ける人々の理解力が十分に成熟していない間は、かえってこの正直な一つの道を信じることができません。
そのため、やむを得ず仏は、一つの仏の教え(一仏乗)の中から三つの教え(三乗)を分けて示し、その時点での教えの利益を与えたのです。
これは本当の教え(真実)のために便宜的な教え(権仮・方便)を示したものです。
つまり、三つの便宜的な教え(三権)がそのまま一つの真実の教え(一実)であることを明らかにしました。
舎利弗などの優れた理解力を持つ人々(上根)は、ここで悟りを得ました。「方便品」という章は、このような真相を明らかにしたものなのです。
「権」と「実」の関係
重要な教えが「権(ごん)」と「実(じつ)」です:
- 「権」:権仮のこと。便宜的な教え、目的を達成するために欠かせない手段・方便
- 「実」:真実のこと。究極の真理、本当の教え
例えば親が子どもに複雑な概念を説明する時に、まず簡単な例え話を使うのに似ています。例え話(権)は最終的な理解(実)に至るための手段なのです。
「警喩周」と三車一車の譬え – 深い真理を物語で伝える
「警喩周」とは、「法説」だけでは理解できなかった人々のために、「三車一車の譬え」という物語を用いて、「三乗即一乗」(三つの教えは実は一つの教えである)という真理を説明し、四大弟子などの中程度の理解力を持つ人々(中根)を悟りへと導いたものです。
これが「譬喩品」の内容です。
では、「三車一車の譬え」とはどのような物語なのでしょうか。
三車一車の譬え
ある大きな家で、たくさんの子どもたちが遊んでいました。突然、四方から火事が起こり、恐ろしい勢いで炎が子どもたちに迫ってきました。しかし、子どもたちは火の怖さを知らず、まったく恐れる様子もなく、楽しそうに遊び続けていました。
家の外にいた父親は、この状況を見てひどく心配し、一刻も早く子どもたちを救い出さなければと考えました。「火事だ!早く逃げなさい!」と叫びましたが、子どもたちは聞く耳を持ちません。子どもたちには、火を触ったらどうなるのか、このままではどうなるのか理解する知恵がないのです。
そこで父親は知恵を絞り、子どもたちが普段から欲しがっていた玩具、つまり羊の車、鹿の車、小牛の車が門の外にあると告げ、それをあげるから出ておいでと呼びかけました。子どもたちは火は怖くなかったものの、玩具が欲しさに我先にと家から飛び出してきました。
門の外で父親を見つけた子どもたちは、約束の車をねだりました。すると父親は、子どもたち全員に素晴らしい大きな白牛車を与えたのです。実は、羊車や鹿車は最初から存在していなかったのでした。
たとえの意味
「燃える家」とは、「火宅」と表現され、苦しみに満ちた現実世界のこと。
「遊ぶ子どもたち」:真理に気づかない人々のこと。
「父親」は仏陀(釈迦)のことであり、「三種の車」は、修行の三つの段階(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)を表しています。
そして「大きな白牛車」は、究極の真理である一仏乗の教えをたとえられました。
お釈迦様の巧みな善巧方便によって、私たちに「三乗即一乗」(三つの教えは実は一つの教えである)を理解させようとなされているのです。
「因縁周」の意義 – 過去世の縁から悟りへ
「因縁周」は、先の「警喩周」でもなお理解が及ばなかった理解力の低い人々(下根)のために説かれました。
下根の人々は、三乗と一乗の違いに迷いを抱いていていました。
そのため「大通結縁」という遠い過去の物語を通じて、種(教えの種を蒔くこと)、熟(その種が熟すこと)、脱(解脱すること)という因縁の関係性を詳しく説明し、すべての人が必ず仏になれるという大きな確信と安心を与えたものです。
「大通結縁」の物語とは、「化城喩品」で説かれる物語です。
大通結縁の物語
今から数え切れないほど昔(三千塵点劫)、大通智勝如来という仏がいました。
この仏が以前、国王だった時に16人の王子がいました。父である王が仏になったことを聞いた王子たちは、父のもとへ行って教えを聞き、皆出家して、父が説いた法華経を聞いて深く疑いなく信じる(信受)ことができました。
大通智勝仏は法華経を説き終えると、静かな部屋で瞑想(禅定)に入りました。
この時、16人の王子たちは、それぞれ説法の座に着いて、大勢の人々に対して、父が説いた法華経の教えを繰り返し説きました。
王子たちから説法を聞いて悟りを求める心(菩提心・道心)を起こした人々が大勢いたのです。
その中の「一群の人々」は、16番目の王子の説法を聞いて菩提心を起こし、いずれ必ず無明(迷い)を断ち切る力を心に植え付けられました。これを「下種結縁」(教えの種を蒔いて縁を結ぶこと)と呼び、第16王子と「一群の人々」との間には、非常に深い因縁が成立したのです。
忘れられた菩提心と因縁の成熟
しかし人々は、何度も生まれ変わる間に、かつて起こした「自他ともに救う」という悟りを求める心(菩提心)を忘れてしまい、「自分だけが悟りを得る」という二乗の考えに陥ってしまいました。
しかし、一度植えられた成仏への種は決して朽ちることなく、徐々に熟して、今やついに解脱すべき時が来たのです。
この時機を捉えて釈迦は世に現れました。
実は、現在の釈迦は、かの16人の王子のうちの第16番目の王子であり、現在の二乗の人々(理解力の上中下を問わず)は、その第16王子の説法を聞いて縁を結んだ人々だったのです。
したがって、たとえ忘れてしまっていたとしても、一度は菩提心を起こした菩薩だったのですから、今日悟りを得るのは当然のことだと説き、彼らに自身が決して価値のない存在ではないことを信じさせたのです。これが「大通結縁」の昔の物語を語る意味です。
このように三つの説法方法(三周)を経て、二乗の人々を導いてすべて仏の教え(仏乗)に入らせ、必ず仏になれるという約束(記別)を与えました。ここにおいて、教えを受ける人々への教化の利益は完成したのです。
「本門の開顕」 – 永遠の仏という真実を明かす
「本門の開顕」とは、法華経の後半14品で説かれる教えです。
中でも特に「寿量品」を中心的に教えが説かれています。
先の「迹門」では、あらゆる現象の真実の姿(諸法実相)と、すべての存在が仏になれること(十界皆成)を明らかにして、教えを受ける人々への教化は完成しました。
しかし、そこからさらに一歩進んで、釈迦が仏陀となったのはブッダガヤでの最近の出来事だという一般的な理解ではなく、はるか昔(五百億塵点劫)からの本来の姿を示したのです。
どういうことかというと、地球上では、菩提樹の下で悉達太子として悟りを開いたという成仏の姿をお釈迦様はお店になられました。
しかし法華経では、実は永遠の昔から仏であったという真実の寿命を明らかになされ、過去も現在も同じ一人の仏であって、今も昔も仏であったことを示されたのです。
これにより、弟子たちの信仰はさらに深まり、ついには一生のうちに必ず悟りを得るという素晴らしい妙益を受けることになりました。
「迹門」では教えを受ける人々への教化は完成していましたが、教える側の仏の側には、まだブッダガヤでの最近の成仏という霞がかかっていました。
今やその本来の姿を完全に明らかにしたのですから、「本門」は教える側(仏)の真実を、究極的に明らかにするものなのです。
ここにおいて、教える側も教えられる側も、すべての方便を離れて真実を明らかにし、仏の一生の教化において、事実と道理の両面の教えが完成(円滿究竟)されたのです。
小結:「迹門」から「本門」へ
- 迹門(跡門)の段階
- すべての人が仏になれることを理解する
- 教えを受ける側の理解が完成する
- 本門の段階
- 教える側(仏)の真の姿を理解する
- 永遠の真理の存在を認識する
時空(時間と空間)を超えた真理の開示
法華経の教えの凄さの一つは、釈迦の存在が私たちが通常理解している時間と空間の枠組みをはるかに超えているという点です。
釈尊は単なる歴史的事実の訂正をされたのではなく、真理の教えをとはどうのようなものか、真理の本質を明示されています。
たとえば、私たちは「万有引力の法則はニュートンが発見した」と言いますが、実際にはその法則は人類が発見する前から存在していました。
同様に、仏の真理も、お釈迦様が悟りを開く前から永遠に存在しているのであり、お釈迦様が真理を発見(覚り)されて、私たちに教えていかれているのです。
天台宗が教える法華経の観法については、以下をお読みください。