今回は、運命の意味について深めていきます。
当たり前のように言葉として使っている「運命」とは何か、改めて考えてみましょう。
定義できない「運命」という言葉
哲学者カントは「運命」の意味を『純粋理性批判』の中で、次のように答えています。
運命の意味は「経験からも理性からも導き出すことができない」と。
私たちは日常会話で「運命」や「幸運」という言葉を使うことができますが、実はこれらの言葉は厳密な定義が不可能なのです。
しかしカント自身も上記本の冒頭で「人間の理性は奇妙な運命を持っている」という運命とう言葉を使用しています。
なぜ運命という言葉を使いたくなるのでしょうか。
私たちが信じている幸福の方程式
私たちは、ある単純な原理を信じいます。
それは
「善い人は幸せになり、悪い人は不幸になる」という考えです。
仏教ではこの道理を「自業自得」や「因果応報」と呼び、善い行いは善い結果を、悪い行いは悪い結果をもたらすと説きます。
善因善果……善い行いをすれば、善い結果(幸せ)が現れる
悪因悪果……悪い行いをすれば、悪い結果(不幸)が現れる
自因自果……自分の行為の結果は自分に現れる
この考え方は私たちの日常生活の基盤となっています。
学生は勉強すれば試験に合格にできると考えているため、勉強します。
社会人は給料得れば好きなものを買えると思っているため、働きます。
逆に、違法行為をすれば罰せられために、違法行為を辞めます。また不健康な生活習慣は病気のリスクを高めると知っているため、健康な生活を目指します。
このような経験から、私たちは「幸せも不幸も自分の行動次第」と信じるようになるのです。
しかし現実には、人間の努力だけではどうにもならないことがあります。
努力では変えられない運命の存在
生まれつき楽譜を読めるといった才能や、八頭身のプロモーションといった容姿は、後天的な努力ではありません。
また地震などの自然災害による被害もあります。
これらのようにいくら頑張っても変えられない幸・不幸が存在するのも事実です。
予期せぬ災難に見舞われた時、人は必ず「なぜ私が?」と問います。
そしてその答えが見つからない時、私たちは人知を超えた力の存在を感じ、「これが私の運命なのか」とつぶやくのです。
ここでいう「運命」とは、人間を超えた力(神なども含む)によって与えられた喜びや悲しみのことを指します。
これが「運命」という言葉の最も基本的な意味であり、多くの人々がイメージするものでもあります。
人間に組み込まれた因果律の探求心
人間の脳には「原因と結果のパターン(法則)」を見抜く力が、備わっています。
私たちの祖先は、種を蒔けば芽が出る、火は物を燃やす、といった因果関係を理解することで、未来を予測し、文明を築いてきました。
しかし、「まかぬタネは絶対に生えない」という因果関係を理解したいという欲求は、時として私たちを苦しめることになります。
太古から神が信じられてきた理由は、ここにあります。
原因がわからないという恐怖から生まれた神々
天文学が発達していなかった時代、突如として起こる日食は人々に大きな恐怖を与えました。
そこで大昔の先祖たちは「太陽が欠けたのは神が怒っているから」という説明を見出したのです。
この解釈には重要な意味がありました。ただ恐怖に震え、世界の終わりを待つだけでなく、「神の怒りを鎮める儀式」という具体的な行動が可能になったからです。
説明のない不安よりも、たとえ迷信であっても、何らかの理由があると信じる方が、人は希望を持って生きられるのです。
しかし原因がわかってくれば、これらの迷信は、どんどんなくなってきます。
科学の進歩と残された謎
時代が進むにつれ、多くの自然現象は科学的に説明できるようになりました。
日食は天体の運行として予測可能になり、台風や雷、火山噴火のメカニズムも解明されました。もはや誰も、これらを神々の仕業とは考えません。
しかし、科学にも説明できないことがあります。例えば、台風の発生メカニズム(how)は解明できても、なぜ特定の人が被害に遭うのか(why)という問いには、答えることができません。
この「なぜ私が?」(why me?)という問いは、科学の進歩だけでは解消されることはありません。
だからこそ、いつの時代にも災害になったら「神が与えた運命」という説明や、病気になれば「先祖の祟り」「悪霊の仕業」といった考えが残り続けるのです。
まとめ
運命とは、人間を超えた力(神なども含む)によって与えられた喜びや悲しみ、と人々は理解します。
この運命はどのようにして変えていけばいいのでしょうか。
さらに運命とはななにか、深めていきたいと思います。
運命については次の記事もお読みください。