人生には誰しも予期せぬ不運や苦しみが訪れるものです。
そんな時、私たちはつい「運が悪かった」「偶然が重なった」と嘆いてしまいがちです。
しかし、ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、このような考え方こそが、かえって苦しみを増幅させてしまうと警告しています。
そもそも運とはなんでしょうか?運は存在するのでしょうか?
運命の意味については、こちらの記事もお読みください。
私たちがいつも想定していること
では、なぜ私たちは「運が悪い」という言葉に頼ってしまうのでしょうか。
その前提には、「善人は幸せに、悪人は不幸になる」という因果応報の考え方があります。
私たちは無意識のうちに、自分の努力や善行には相応の報いがあるはずだと、因果応報を信じています。(参考記事:運命とはなに?)
そして、その期待が裏切られた時、「なぜ私がこんな目に」という怒りや悲しみが湧き上がってくるのです。
この心理を、実際のスポーツの例で見てみましょう。
同じ失敗でも運が悪い人と、悪くない人
2010年バンクーバー五輪の男子フィギュアスケートで、メダル候補の織田信成選手が演技中に靴紐が切れるというアクシデントに見舞われ、7位に終わりました。多くの人がこれを「運が悪かった」と表現しました。
なぜなら、織田選手は懸命な努力を重ねてきた「善人」であり、そんな彼に「理由のない不幸」が降りかかったように見えたからです。
一方、1994年リレハンメル五輪を前に起きた、トーニャ・ハーディング選手の事例は対照的です。
ライバルのナンシー・ケリガン選手への襲撃に関与していたことが発覚したハーディングは、本番の演技で失敗した際、靴紐の不具合を理由に挙げました。
しかし、彼女への同情の声はほとんどありませんでした。なぜなら、人々の目には彼女が「悪人」として映っており、その失敗は「当然の結果」と受け止められたからです。
上記二つの事例のように、私たちは「運」という言葉を、実は非常に選択的に使っています。
それは単なる偶然の出来事を指すのではなく、「善人に降りかかった理不尽な不幸」という価値判断が含まれています。
しかし、苦しみを「運」や「偶然」として片付けてしまうのは、実は問題の本質から目を逸らすことにもなりかねません。
「運」の意味
「運」とは、本来「偶然やってきた幸・不幸」を指す言葉です。まるでサイコロを振るように、私たちには理由も分からないまま、ある環境や状況が割り当てられる。
それを私たちは「運」と呼んでいるのです。
この「運」について身近な例で考えてみましょう。
普段授業をさぼっている友人が、テスト前日に勉強した範囲から問題が出て満点を取ったとします。
私たちはこれを「運がよかっただけ」と表現します。
なぜなら、その友人は満点に値する努力はしていないのに、「棚からぼた餅」のように予期せぬ良い結果を手に入れたからです。
私たちは「運」という言葉を、実に都合よく使い分けているのです。
ライバルが成功すれば「あいつは運がよかっただけだ」と貶め、自分が失敗すれば「運が悪かっただけだ」と自己弁護や慰めに終始します。
しかし、偶然という考え方でいる限り、私たちには怒りや腹立ち、妬み、そねみの心しか生まれないのです。
偶然への執着の危険性
ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、この「運」や「偶然」という考えに執着することの危険性を次のように警告しています。
「苦しみをもたらした事情が偶然にすぎないと考えること自体が、苦しみにとげを与える」
引用:『意志と表象としての世界』
なぜでしょうか。
それは「偶然」という言葉で片付けてしまうことで、私たちは出来事から学び、成長する機会を逃してしまうからかもしれません。「運が悪かった」と諦めてしまえば、そこには腹立ちと無力感しか残りません。
むしろ重要なのは、「偶然」とはなにかを理解し、「偶然」を自分の味方につけることです。
偶然の本質がわかれば、運命をもわかります。
偶然を味方につけられれば、運命を操り、切り開くことができるのです。
まとめ
「運が良い、悪い」という時の「運」の意味は、努力などの行為と関係なしに「偶然やってきた幸・不幸」をいいます。
これを「運命」ということもあります。