伝教大師の入唐求法 ~命がけの仏教伝来の旅~

伝教大師最澄の、入唐求法の旅について、説明します。

目次

遣唐使船団への参加

804年(延暦21年)9月、伝教大師は朝廷から重要な許可を得ました。

中国への留学(入唐求法)の許可です。

ただし、この許可には「1年以内に帰国すること」という条件が付されていました。

大師は還学生として、中国への渡航を果たすことになったのです。

最初の航海:危険との遭遇

翌805年(延暦22年)3月、大師は遣唐使の船団に加わり、当時の最重要港であった摂州難波の津(現在の大阪市南区三津寺町付近)から出航しました。この時の船団は4隻で構成されていたといいます。

しかし、航海は順調とはいきませんでした。

瀬戸内海に入ってすぐに暴風に見舞われ、4隻のうち1隻が沈没。

大師の乗っていた第二船は、辛うじて沈没を免れ、波に流されながらも予定通り下関海峡を通過しましたが、予定にはなかった豊前の国大里(現在の福岡県)に避難することを余儀なくされました。

待機の日々と再出発

大師は豊前で次の便船を待つことになります。

この間、宇佐八幡への参拝や香春神宮での修法を行い、その後太宰府にも参詣しました。

約1年半という長い待機期間を経て、806年(延暦23年)5月、ついに新たな遣唐使の船団が難波を出発。大師は喜び勇んで、筑前大津浦でこの一行に合流しました。

困難な航海を経てついに中国へ

7月、一行は大津浦(博多大津または冷泉津または荒津という。今の地形とは異なる場所)を出発。

壱岐海峡を南下し、肥前松浦の田浦に寄港した後、いよいよ中国への直航しました。

南路を選んでの航海でしたが、明州(現在の寧波)まで実に50日以上もかかっています。

これは当時の航海がいかに困難だったかを物語っています。

中国での修学と帰国

大師の中国滞在は260日と短いものでしたが、その間、天台山を中心に台州や越州を往来し、円教、密教、禅宗、戒律という四つの仏教の教えを修得しました。

そして807年(延暦24年)5月15日、明州から帰国の船に乗り、無事日本への帰路につきました。

出典:『天台宗実践叢書』
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