法相宗では、釈尊の説教を、3つの時期に分けて整理します。
3つの段階は、凡夫や修行者の理解の段階に合わせて説かれたものとします。
第一時(有教)
初期の「有教」といわれる段階では、仏陀は大宇宙に法(物事の構成要素)は存在(有)すると許容しました。
しかし固定不変の霊魂(アットマン、実我)は存在せず、「空」であると真実を示されます。
理由は、当時広まっていたバラモン教などの「実我(固定不変の霊魂)」の考えを否定するためです。
これは阿含経などに見られるもので、「我空法有」の教えと言われます。
これにより、我(自己)の空(無)性を認めつつも、現象界・物事の構成要素(法)の実体性を認める事になってしまいました。
このままでは「心外に実法(我)あり」と誤解するおそれがあります。有教はまだ真実ではなく、まず相手の理解に合わせた方便の教えとなります。
そこで次にの教えの段階に進みました。
第二時(空教)
第二時の「空教」の段階では、般若経、思益経、 維摩経等の所說などを通じて「一切皆空」という教義が説かれました。
これを「我空法空」の教えといいます。
物事の構成要素(法)も自己(我)もすべてが空である(一切皆空)と教えられたのです。
現象世界(俗諦)では物事は存在するように見えますが、究極の真理(真諦)では、心も境(対象)も共に空であるということです。
これにより、世界の現象や個別存在に対して固執(有執)する者を減らし、より解脱に近づくことが目指されました。
しかし、悟りを得ない私たち凡夫では、右と言えは左に傾き、左といえば右に傾くように、全然真ん中の中道という考え方ができません。
当時の修行者も、「空」の教えを強調されると、空性に執着(空執)し、中道の教えから外れる考え方に偏ってしまいました。
第三時(中道教)
最後の段階である「中道教」では、私たち凡夫が考えているような存在はないが、存在しないわけではないという「中道」を教えられました。
これを「非有非空」の教えといい、『解深密経』や『華厳経』などがこの教えを説いています。
少し詳しくいうと、心(識)は固定不変のものではありませんが、存在はしています。
一方、物事(境界)は、実体はありませんが無ではないということです。
空を強調すると、すべてが無になるように考えてしまいます(空執)が、仏陀はこれを否定されました。
この第三時において、非有非空の中道という真実の教えが説かれたというのです。
三時のまとめ
第一時では、人我への執着(我執)の誤りを破りました。
第二時では、有への執着(有執)の誤りを破りました。
第三時では、空性への執着(空執)の誤りを破り、真実をとかれました。
そのため、法相宗では第一時と第二時は「未了義教」(完全な教え)といい、第三時が「了義教」(完全な教え)とされています。
このように、仏教の教えは相手の理解にあわせ、段々とより精緻かつ深い理解へと導かれているのです。