これはなぁ、今から1200年以上前の話じゃ。光仁天皇が世を治めておられた頃、八代市の東陽町種山に權蔵夫婦が住んでおった。宝亀8(777)年1月29日、その夫婦に男の子が生まれたのじゃ。その子の名前は、薬欄童子。
薬欄は一つを聞いて十を悟るといった才能があったので、世間の人から神童と呼ばれていたそうな。
種山
(以下の石匠館付近がかつて種山とよばれるところでした。)
権三別当堂
このお堂は氷川を挟んで443号線の対岸を走る道路が鍛冶屋下橋から白髪岳天然石橋に向かう道筋にあります。
弉善大師の父親「權蔵別」と母親「オヨネ御前」が住んでいたところで、堂は父母の墓所といわれています。
光仁天皇
生没年 : 709~781
奈良末期(在位770~781)の第49代天皇。天智天皇の子である施基皇子を父とする。770年、称徳天皇没後、62歳にして即位。銅鏡を下野に流し、和気清麻呂らを呼び戻した。前代の道鏡による仏教偏重の諸制度を改め、財政を緊縮に努めた。その事業は次期天皇である桓武天皇に受け継がれることになる。 秋篠寺は、光仁天皇・桓武天皇の勅願により建立されたと伝えられる。
引用:コトバンク
13歳で出家し、草庵を結ぶ
薬欄は、十三歳まで八代(やつしろ)の古麓にある麦島城主、桧前正麿(ひのくままさまろ:日隈政丸)のもとで育てられ、その後、伊倉山の麓にある薬師寺に入門して学ばれ、出家されたんじゃ。
ある時、薬欄は伊倉山の石の上に座って、七日七夜祈り続けられたそうな。その満月の日、東南の方を眺めていると、重なる山々の向こうに一つ嶺が現れた。その嶺には白い光が天にみなぎり、紫色の雲があたりの空にたなびいていたのじゃった。
薬欄は木の根草の根を踏み分けてその嶺を目指された。山は半空にそびえ、白い雲は常に往来し、、今までに経験のない香りが山一面満ちていたそうじゃ。
そして、山の頂付近には大きな池があってのう。薬欄はその池の横に草庵を結んで、修行を始められたのじゃ。
桧前正麿
当時の国司は道妙、郡司が桧前正麿だったという。田浦氏の祖、天智天皇三十一代堀河右大臣俊房の嫡男。宝亀年中に八代郡司となった。
伊倉山
熊本県八代郡にあった小浦村の山。
金海山の由来
10年後の延暦18(799)年4月8日、山の頂にあった大池から釈迦如来像が涌き出づるようにお出ましになった。
薬欄は大層喜び、自分の衣の袖に包んで抱き上げられ、御本尊として庵に祭られたのじゃ。これが釈迦院の始まりじゃ。薬欄23歳の時であった。
薬欄は、朝に谷川の流れを聞いては、般若の真の姿を知り、夕に風のそよぎを肌に感じては、般若の大覚を十分に悟られた。薬欄の名声は日に日に広まり、遠く京都の地まで響き渡っていったそうな。
釈迦院の頂上から西南に向かって遙かに見渡すと、大海原が見えるじゃろ。潮の流れが西日に映えて黄金色に輝くのじゃ。だからこの山を金海山というのじゃ。
桓武天皇の平癒
延暦18(799)年秋半ば、光仁天皇の長男である桓武天皇がご病気になられたのじゃ。多くの名医に診てもらったり良薬を試されたが、何の効果もなかった。
そこで、天皇の勅使は、高徳の僧である薬欄を京都までお呼びになった。それか祈祷させられると、たちまち天皇のご病気は治られたのじゃ。みんな本当に喜ぶやら安心するやら。
天皇のお喜びは一通りではなかった。御礼として当地に75坊の寺を建てられ、薬欄に「弉善大師」という称号を与え、父親には「別当」、母親には「御米御前」という役職を贈られた。さらには、八代郡、上益城郡、下益城郡を寺領としてくだされ、釈迦院の御宸筆を大門に懸け、永く勅願寺として定
められたそうな。
桓武天皇
桓武天皇は、日本の第50代天皇で、日本の政治の中心が関西地方に移り、その後約1000年にわたって続く平安時代の基礎が確立されました。
主な業績
・784年に長岡京へ794年に平安京(現在の京都)へ遷都
・律令体制の立て直し、中央集権体制の強化、新たな官僚制度の整備
・蝦夷(えみし)征討
前立釈迦如来像の縁起
延暦25(806)年、ついに桓武天皇がお亡くなりになってしもうた。弉善大師は490日の長い間、天皇の冥福を祈って仏事を営まれたそうな。
そのすべての追福が終わったある日、「松橋の海中に光る物があるぞ!」と村人が言うので、弉善大師はその場所に行かれたのじゃ。そして見たものは、「中国の天台山から金海山に寄進す」と記された一本の大木だった
弉善大師は、大同11(807)年にその大木で釈迦如来像を彫られたそうじゃ。これが、釈迦院の前立釈迦如来像と言い伝えられておる。それから、観世音菩薩地蔵菩薩、不動明王を彫られ、四十九院に祭られたのじゃ。
弉善大師の往生
承和3(836)年9月6日、弉善大師が六十歳の時じゃった。
大師は七十五坊の僧侶と共に「心見嶽(試が嶽)」に登り「当山に一度参った者、またはよく往来する者は、必ず西方極楽会に往生す」と遺言されたそうな。
そう言われた弉善大師は、まもなく西の空に静かに姿を消されたそうな。
これが「現身往生」というのじゃなぁ。
心見嶽(試が嶽)
釈迦院の北方二十分くらいのところにある山。
釈迦院の被災と再興
戦国時代の天正16(1588)年、釈迦院は大災害にあってのう。小西行長の兵火の前に、75坊はすべて焼き尽くされたのじゃ。
死んだ僧兵も数多く、わずかに生き残った僧侶たちは、御本尊の釈迦如来像を必死に探されたそうな。そうしたら、八丁も離れた南方の松の梢に無事でおられたそうな。
その後、加藤清正公が釈迦院を再興され、加藤忠広公によって再建されたんじゃ。その当時に立てられた山門が今も釈迦院に残っているぞ。
そうそう、弉善大師を幼少の頃から世話をされた桧前(日隈)正麿公は「私が死んだら、釈迦院が見える南川内に埋めてくれ」と言い残してこの世を去られたんじゃ。
遺言通り正麿公は、南川内の小高い丘に眠っておられる。何百年も経った大杉の根元にその墓がある。
釈迦院同様参られたらいかがかな。
おわり