伝教大師最澄が、天台宗を開かれるまでの経緯を、解説します。
混迷する仏教界の実態
伝教大師最澄が生まれた8世紀末の仏教界は、深刻な危機に直面していました。
寺院は豪華な外観を誇っていたものの、その内実は完全に腐敗し、一般の人々の生活からは大きく乖離していました。
政治との癒着も進み、国家における仏教の存在意義すら疑問視される状況にまで追い込まれていたのです。
比叡山への決断
このような状況を目の当たりにした最澄は、大きな決断を下します。
都での生活を離れ、比叡山へと向かったのです。
しかし、これは世を捨てての隠遁生活を意味するものではありませんでした。むしろ、仏教の本質を追求するための積極的な一歩だったのです。
天台の教えとの出会い
比叡山での生活の中で、最澄は中国天台大師の教えと出会います。
法華経の「諸法実相」や「十界皆成」という教えは、最澄の心に深く響きました。
これらの教えは、最澄が抱いていた「国を良くしたい」という熱い思いと完全に重なり合ったのです。
同時に最澄は、当時の日本の仏教には根本的な問題があることにも気づきました。
中国天台宗の教えの評価
天台宗はもともと中国の天台大師智顗が開いた宗派です。
南都の僧侶たちも、中国天台宗の教えの素晴らしさを認めていました。
南都の僧侶等が桓武帝に上った表文には以下のようにあります。
沙門善議等言す竊かに天台の玄疏を見るに、釈迦一代の教を総括して悉く其趣を顕すに、所として通ぜずととなし。独、諸宗に逾へて殊に一道を示す。其中に説く所の甚深の妙理は、七個の大寺六宗の学生、昔より未だ聞かざりし所。未だ會て見ざりし所なり。三論法相久年の諍も、澳焉として氷の如く釈け、照然として既に明かなり。
引用:『訳註叡山大師伝』
意訳:沙門善議等が秘かに天台の深遠な解釈を見た時、釈迦の一代の教えを総括してその本質を明らかにされた。他のすべての教えとは一線を画し、特にただ一つの救いの道を示していた。天台大師の説かれる非常に深く奥深い理論は、過去には七大寺の六宗の学生たちでもかつて聞いたことがない、見たことがないものだった。長らく続いた三論宗や法相宗の論争も、天台宗の教えによってすんなりと解け、すみきったように明らかで、明瞭な教えである。
天台大師の教えは、釈迦の教えを総合的に理解し、長年の宗派間の対立を解消する力を持っていることを認識していたのです。
「すべての人が仏になれる」という天台宗の考えは、まるで枯れ木に再び花が咲くような、新しい希望をもたらしました。
日本天台宗の誕生
最澄は悟ったのです。単なる制度の改革や僧侶の品行改善だけでは不十分だということを。
本当の仏教を求める声が高まる中、新しい宗派の確立が必要とされました。
そしてこの要求に応える形で、天台宗は誕生したのです。
桓武天皇がこの新仏教の流れを支持し、和気弘世という有力な支援者も現れました。
和気弘世の貢献と桓武天皇の叡慮
伝教大師と天台宗の開宗について語る際、まず注目すべきは和気弘世との深い関係です。
和気弘世は弟の真綱とともに、当時の社会で重要な地位を占める名士であり、和気清磨の子息でした。彼らは早くから伝教大師を敬い、法華経への深く信仰していました。
当時、「法華一乗の教え」は社会に広く認められておらず、「三諦融即の妙理」もまだ顕れていない状況でした。
これを憂いた弘世は、伝教大師を社会に広く紹介し、天台の教えを広めるため尽力しました。
その一環として、延暦21年に高雄山で大規模な講演会を企画。伝教大師を司会に迎え、その深い学識を世に示すとともに、法華経の教理を広めようとしたのです。
この法会は大変な成功を収め、天皇や皇太子も大変喜び、勅宣を下すほどでした。
その結果、伝教大師は朝廷や民間の人々から深い崇敬を集め、天台の教えも広く信仰を得るようになりました。桓武天皇も深く感動され、新たに天台宗を興立することを望まれました。
法華宗(天台宗)の奏請
この気運の高まりを受け、伝教大師は入唐求法を決意。
延暦21年に許可を得て渡航し、多くの師から四宗を相承して、延暦24年に帰国しました。
当時、各年の僧尼の出家得度の定員数が、国家の規律によって決められるという年分度者の制度がありました。そして得度を実施できるのは、南都六宗に限られていたのです。
そこで伝教大師は、中国から帰国した翌年正月、各々年分度者の制度の中に、これまでの六宗に加えて法華宗(天台宗)を加えることを朝廷に願い出ました。
これは各宗の均衡を保ちつつ、天台宗を公に認知させようとする重要な一歩でした。
この請願は同26日に勅許され、ここに初めて国家公認の天台宗僧侶が誕生することとなりました。
このときが、天台宗の開宗の時と見なすことができます。
天台宗の開宗は、伝教大師の深い信念を基礎としながら、和気弘世・真綱らの支援、そして桓武天皇の御心によって実現した歴史的な出来事だったのです。
要するに、天台の開宗は、伝教大師の「因」をもとに、弘世、真綱等の応援者、そして桓武天皇の未来を見通した優れた願という「縁」がそろってはじめて成立したのでした。
伝教大師の理想
このように、伝教大師最澄の挑戦は単なる新しい宗派の設立ではなく、日本仏教の本質的な改革を目指すものでした。
それは民衆のための仏教、真の仏教の教えを伝えるという、大きな理想に向かっての第一歩だったのです。
そしてこの理想が素晴らしかったからこそ、多くの人達から強力な支援を得られたのでしょう。