「善心所」の十一の要素とその意味 – 清らかな心の働き

善心所

仏教における善心所(ぜんしんじょ)とは、心の善なる働きを指す重要な概念です。

善心所は全部で十一あります。

今回は、十一の要素について詳しく解説していきたいと思います。

心所は、かならず心王(八識)に従う心で、心所には、51の心的要素があります。

心所の全体像は、以下の記事にあります。

1.信

「信」とは、心を清らかな状態に保つ働きを持つ重要な要素です。この「信」には、濁りや穢れた心を浄化し、他の心の働きも清らかな方向へと導いていく力があります。これは、私たちの心が曇りのない透明な水のように澄んでいく過程だと考えることができます。

「信」には三つの重要な側面があります。それぞれが異なる対象や目的を持っていますが、互いに補完し合って「信」という大きな働きを形作っています。

一つ目は「信忍」です。これは、世界に存在するあらゆるものとその根底にある真理を深く理解した上で生まれる確かな信念を指します。たとえば、自然の法則や人生の真理を理解し、それを深く受け入れる心の状態といえるでしょう。

二つ目は「信楽」です。これは、悟りを開いた先人たちとその教えに対する深い敬愛の念を表します。具体的には、仏教の師や先達が示してくれた心の修養方法に対する敬意と信頼の気持ちを指します。

三つ目は「善法欲」です。これは、道徳的に正しい行いを完成させたいという強い願望を意味します。単なる一時的な善意ではなく、継続的に善い行いを積み重ねていきたいという持続的な意志を表しています。

2.精進

「精進」とは、私たちの心が持つ積極的で勇敢な性質を指します。

これは単なる努力や頑張りとは異なり、より深い精神的な意味を持っています。

具体的には、善いことを実践し、悪いことを止めようとする強い意志と行動力です。

この心の働きを日常生活に置き換えて考えてみましょう。

例えば、新しい習慣を身につけようとするとき、私たちは様々な誘惑や障害に直面します。「精進」とは、そうした困難に立ち向かい、目標に向かって果敢に前進していく心の力なのです。それは、朝早く起きて瞑想する習慣を続けたり、悪い習慣を断ち切ろうとしたりする時に発揮される精神的な推進力といえます。

特に重要なのは、「精進」には「修善」(善いことを実践すること)と「止悪」(悪いことを止めること)という二つの側面があるという点です。(止悪修善、廃悪修善、止悪行善、断悪修善などともいいます)

このように「精進」は、単に一生懸命に努力するということを超えて、積極的な心の働きを表しているのです。

3.慚と4.愧

「慚」は、善や徳に対する積極的な憧れと、それに基づく自己反省の心です。

具体的には、徳の高い賢人に対する深い敬愛の念を持ち、その教えを心から尊重する態度を指します。そして、そのような理想と比べて自分がまだ至らないことを認識し、それを恥じる心として現れます。

これは自己否定ではなく、より高い境地を目指すための感情です。例えば、尊敬する先生の生き方に感銘を受け、自分もそうありたいと願いながら、現在の自分の至らなさを認識するような心の動きです。

一方「愧」は、悪や不正に対する明確な拒絶反応として現れます。これは二つの側面があります。

第一に、暴力的で道理にそむく人々の行為を見分け、それを明確に否定する判断力です。

第二に、道徳的に問題のある行為や考え方を軽蔑し、そのような要素との関わりを恥じる感覚です。例えば、誰かが不正を働いているのを見たとき、それを明確に否定し、そのような行為に加担することを恥じる気持ちとして表れます。

この二つの心の働きは、コインの表と裏のような関係にあります。

「慚」が善への憧れと自己向上を促す力であるのに対し、「愧」は悪を見分け、それを避けようとする防御的な力です。

5.無貪 6.無瞋 7.無痴

無貪、無瞋、無痴は、三つの重要な善の根本です。

無貪

「無貪」は、欲望や執着から解放された心の状態を指します。

ここでいう欲望(貪慾)とは、単に物事を求める気持ちだけではなく、それに執着してしまう心の傾向全般のこと。新しい物を買って一時的な満足を得ても、すぐにまた別の物が欲しくなるような際限がありません。

この欲望の連鎖をやめようとする心です。

無瞋

「無瞋」は、全ての存在に対する深い慈しみの心を表します。

「情」とは感情を持つ生き物を、「非情」とは感情を持たない物事を指しますが、「無瞋」はそのどちらに対しても慈悲深い態度で接し、決して害を与えないという心です。

例えば、誰かに腹を立てたとき、その怒りを抑制できるだけでなく、相手の立場に立って理解しようとする心の働きとして現れます。

これは単なる「怒りを抑える」という消極的な状態ではなく、積極的な慈悲と思いやりの心を育むことを意味します。

無痴

そして「無痴」は、物事の真理や道理を正しく理解する智慧の心です。

「痴」とは物事を誤って理解することを指しますが、「無痴」は誤らないように、明晰な理解力を持つ心です。

これは単なる知識の蓄積ではなく、物事の本質を見抜く洞察力を意味します。

例えば、目の前で起きている出来事の表面的な現象だけでなく、その背後にある本質的な意味や関係性を理解できる心の状態です。

これら三つの心の性質は、互いに深く関連し合っています。「無貪」による執着からの解放は、「無瞋」の慈悲の心を育む基盤となり、「無痴」の明晰な理解力は、不必要な執着や怒りを避けることを助けます。

このように三つの性質が調和することで、私たちの心はより清らかで安定した状態へと導かれるのです。

8.輕安

輕安は、身心が調和した状態で修行を行うことができる心所です。特に禅定との関係が深く、心の集中を妨げる要因を取り除く働きがあります。

「軽安」とは、心と体が理想的な調和状態で、修行を行うことができる心です。

「軽」は心身が軽やかで清々しい状態を、「安」は安定していることを表しています。

この状態は、日常生活での疲れや重たさから解放された、爽やかで安らかな感覚といったらわかりやすいかもしれません。

輕安の心は、特に瞑想修行において重要です。瞑想をする際、私たちはしばしば「定心」と呼ばれる集中した心の状態を目指します。

しかし、この集中状態を妨げる二つの大きな障害があります。一つは心が沈み込んでしまう「昏沈」、もう一つは心が落ち着かず浮つく「掉挙」です。

「軽安」は、これらの障害を自然に克服する働きを持っています。

たとえば、長時間のデスクワークで心身が疲れ切っている状態を想像してください。この時、瞑想をしようとしても、心は重く沈んでしまいがちです。反対に、興奮や不安で心が落ち着かない時は、集中することが難しくなります。

「軽安」は、このような状態を超えて、心身が自然と調和する状態へと導いてくれるのです。

「軽安」は、ただ待っているだけでは得られません。適切な瞑想の実践や日々の心の修養を通じて、徐々に培われていくものです。しかし、いったん「軽安」が得られると、より深い瞑想状態へと自然に導かれていくようになります。

9.不放逸 10.行捨

不放逸と行捨は、日常生活における心の在り方を示しています。

不放逸

「不放逸」という言葉は、「放逸」(放縦で怠惰な状態)の反対を意味します。

具体的には、二つの重要な側面を持っています。一つは「煩悩を断ち切ること」、もう一つは「善い行いを怠らないこと」です。

「煩悩を断ち切る」について。

煩悩とは、怒り、欲望、妬み、傲慢さなど、私たちの心を煩わせ悩ませる心です。

これらは日常生活の中で自然と生じてきますが、「不放逸」の心は、そうした煩悩に対して常に注意を払い、それらが心を支配しないよう努める働きを持っています。

たとえば、誰かに腹を立てそうになった時、その怒りの感情に流されるのではなく、一歩引いて冷静に対処しようとする心の姿勢です。

「善い行いを怠らない」について。

これは単に「悪いことをしない」という消極的な態度ではなく、積極的に善い行いを実践し続けようとする持続的な努力を指します。

例えば、毎日の瞑想や読経の実践、他者への思いやりの行動、自己研鑽などを、その時々の気分や外的な状況に左右されることなく、継続的に行っていく姿勢です。

「不放逸」の特徴は、「常に」という継続性です。人生には様々な誘惑や障害があり、時として私たちは善い習慣を途切れさせてしまいがちです。しかし「不放逸」の心は、そうした中でも絶えず注意を払い、修行や善行を継続していく力を与えてくれます。

現代生活に置き換えて考えると、「不放逸」は、例えば健康的な生活習慣を保つ努力や、自己啓発の継続、他者への思いやりの実践などとして表れます。それは一時的な意気込みではなく、日々の小さな実践の積み重ねとして実現されていくものなのです。

行捨

「行捨」は、心の「行い」を適切に「捨てる」(調整する)という意味です。

具体的には、心が両極端な状態に陥るのを防ぎます。

一方の極端は「浮薄」、つまり心が浮ついて落ち着きを失う状態です。

もう一方は「沈鈍」、つまり心が沈んで活力を失う状態です。

「行捨」は、このような極端を避け、常に穏やかで正直な心の状態を保つ力となります。

たとえば、良い出来事があったとき、私たちの心は浮かれがちです。反対に、困難に直面したとき、心は落ち込みがちです。

「行捨」は、このような状況でも心が極端に振れることなく、安定した状態を保つ働きをします。

これは、まるでベテラン船長が荒波の中でも船の舵を適切に取り、安定した航海を続けるようなものです。

4つの心との関係

「行捨」は「不放逸」(継続的な善行の実践)とともに、以下の四つの重要な心の性質が組み合わさって生まれる総合的な働きです。

  1. 「精進」- 向上心と努力の心
  2. 「無貪」- 執着から解放された心
  3. 「無瞋」- 怒りから解放された心
  4. 「無痴」- 迷いから解放された心

これらの四つの性質は、まるでオーケストラの楽器のように、それぞれが独自の役割を持ちながら調和して働きます。

「精進」が前に進む力を与え、「無貪」が執着を防ぎ、「無瞋」が怒りを鎮め、「無痴」が明晰な判断力を与えるのです。

これらが調和して働くとき、私たちは自然と「行捨」の状態、つまり心のバランスを保つことができるようになります。

この心は、生きる上でも重要でな心です。

例えば、仕事や学習において、ただ一生懸命頑張るだけでなく(精進)、結果に執着しすぎず(無貪)、失敗しても冷静さを保ち(無瞋)、状況を正しく理解する(無痴)ことで、持続可能な成長と心の安定を同時に実現することができるのです。

11.不害

「不害」の意味は、すべての生きもの(諸有情)に対して、害を与えないという心です。

これは単に「害を与えない」という消極的な態度ではなく、生命を大切にする積極的な慈悲の表れです。

「不害」は独立した心の性質ではなく、先に説明した「無瞋」(怒りや憎しみから解放された心)の別の表現とされています。

つまり、怒りや憎しみのない心(無瞋)は、自然と他者を傷つけない心(不害)として現れます。

例えば、誰かに対して怒りや憎しみの感情が起きないとき(無瞋)、私たちは自然とその人を傷つけないよう気遣う心(不害)が生まれます。

それは、相手の言動に不快感を覚えたとしても、報復的な行動を取らず、むしろ相手の立場に立って考えようとする態度として現れます。

「不害」の心は、そのような有形無形の暴力を避け、相手を思いやる行動へと導いてくれるのです。

善心所のまとめ

以上の善心所のうち、輕安を除く十種は、善なる心が働くときには必ず同時に現れる要素とされています。

私たちは善をする心を持っていますが、これらの心が強い弱いがあり、その人の仏縁の深さや、仏法の理解からくるもです。

善因善果、自因自果の道理はだれも曲げられません。

善をしなければ、絶対に幸せにはなれません。

仏法を学び、善をする気持ちが強くなるようにしましょう。

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