「攝境従心」の論法と、「性相別論」の法式の違いを説明します。
攝境従心(しょうきょうじゅうしん)
「攝境従心」とは、「すべての現象(境界)は心から生じる」という理論です。
これは、三界(欲界、色界、無色界)がすべてただ一つの心から成り立っており、「心の外に別の法(もの)はない」と説明しています。
つまり、外に見えるすべてのものは、心が作り出したものである、と教えます。
『華厳経』には、「三界は唯心の所造」とあります。これは、すべての宇宙と現象は心が生成するものであると説明しています。
『解深密経』では、「一切の影像は唯心の所現」とあり、すべての現象は心が現す影であるとされています。
性相別論(しょうそうべつろん)
一方で、「性相別論」では「世の中の現象」と「真如」を体系的に分類して、無上甚深微妙法(真如)は、無限に広がっており、その境界はないとされています。
インドで活躍された世親菩薩は、「性相別論」を「五位百法」という枠組みで整理しました。
これにより、全ての存在を「五位」と「百法」に分類し、移り変わる「現象世界」(九十四種の有為法)と「永遠不変の本質的な実在」(無為法・真如)を区別します。
現象世界は「真如」という絶対的な実在を基盤としています。
しかし、「真如」は、直接的に現象となるわけではありません(真如は形も匂いもなく、現象になれば真如ではなくなります)。
現象は、私たちの本心(阿頼耶識)が作り出した影像なのです。
第八阿頼耶識
第八阿頼耶識(アラヤ識)は、個人の無意識の層で、すべての経験の種が蓄えられており、これが心が現すすべての現象の基礎です。
言い換えれば、客観的に見える現象は、すべて心(阿頼耶識)がうみだした影像です。

このように、唯識学は「心と現象の関係」を深く探求します。
結論
「性相別論」では、現象界と真如(本質)を分けて考えます。
一方、「攝境従心」の論法では、すべての現象は心が生み出したものとして理解するので、「唯識所変」とか「唯心所現」と言われるのです。
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